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最前線!職業人インタビュー vol15
一編集者として常に現場に身を置き、ピュアな気持ちを失わずにいたい
「13歳のハローワーク」を作った、ベストセラー編集者 石原正康氏にインタビュー
いしはら・まさやす1962年、新潟県生まれ。高校時代からロック音楽に熱中し、アマチュアバンドでギタリストとして活躍。ヤマハ主催の音楽コンテストで新潟県の「ベスト・ギタリスト」に選出される。法政大学経済学部入学後、85年から角川書店の「月刊カドカワ」編集部で、アルバイトで編集者の仕事を始める。88年、担当した山田詠美氏の『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』直木賞受賞で編集者として認められ、同社に入社、書籍編集部に配属。93年、同社のトラブルを契機に、上司であった見城徹氏(現・幻冬舎代表取締役社長)らと6人で退社し、同年11月の幻冬舎設立に参加。常務取締役就任。
(2004年7月26日掲載)
※インタビュー:2004年6月23日

―幻冬舎といえば、設立以来、五木寛之氏の『大河の一滴』、郷ひろみ氏の『ダディ』、石原慎太郎氏の『弟』、天童荒太氏の『永遠の仔』、そして村上龍氏の『13歳のハローワーク』などなど、ミリオンセラーを連発している新興の文芸出版社として著名です。出版不況が言われて久しい中ですが、好調の要因はどういったことにあるのでしょうか。



幻冬舎を設立した10年前の当時は、バブルが崩壊した後で不安もあったのですが、「自分たちが読みたい本、作りたい本を作ろう。それが何よりも自分たちの喜びだから」というシンプルな志でスタートしました。その前は、角川書店で文芸誌を作っていたのですが、その連載物を本にする、といったルーティンワークに陥っていて、フラストレーションが溜まっていたんです。そこを出て会社を作るのは必然でしたね。自分たちが作りたい本は絶対に売れる、という確信もありました。その少し前には村上春樹さんの『ノルウェイの森』が数百万部も売れたり、よしもとばななさんが売れたりしていて、文芸でも売り上げをあげることは可能だったんです。それに、山田詠美さん、よしもとばななさん、五木寛之さん、村上龍さんといった売れっ子作家と懇意にしていましたので、出だしとしては何とか滑り出せるだろうと。チェ・ゲバラ()が言うところの「革命を起こすには用意周到な準備はいらない、何かを立ち上げれば必要なものは見えてくる」ということを信じてやってきましたね。

―石原さんは常務取締役でいらっしゃいますが、編集のお仕事もされているのですか。

もちろん、やっていますよ。現場感覚が経営に反映されないと会社がおかしくなりますから。普通の社員時代と変わらないですよ、編集の仕事の中味は。キツいですけど、得がたいポジションだと思っています。

―ご担当の作家は、どうやって決められているんですか。


自分がやりたい作家、というだけです。編集者として、どうしてもその作家と仕事をしたいというモチベーションがなければできるものでもありませんから、そこはわがままを言わせてもらっています(笑)。ただし、引き継いでいかなければなりませんから、もう1人、担当者をつけていますが。

―作家とは、気難しくて、それでいてデリケートな人が多い、といわれています。優れた編集者には、どういった資質や能力が必要なんでしょうか。

作家からよく言われるのは、「普通の本を作りたくない」ということですね。僕なんか、いつものとおりに書いてもらえればそこそこ売れるからそれでいい、って思うんですが(笑)、石原とはやったことがない本を作りたい、って言われます。そういう仕事は、作家のスケジュールを押さえて何か書いてもらう、とか、会社の都合で何か企画を出して書いてもらう、というようなことではないんです。全くの個人同士の付き合いですね。ですから、書けるかどうかはわからないが、石原とならば新しい作品にチャレンジしたい、と思ってもらえることが能力でしょうか。「コイツのためなら書いてやってもいいか」と思ってもらえるように愛嬌度を高めるとでも言うか。人から愛されるっていうのは大切なことだと思うんです、お互いに。

―村上龍氏は「うまく仕事をするための特別な神経の持ち主」、山田詠美氏は「感じよく振る舞うだけなら誰でもできるが、彼はケンカできる相手」と石原さんを評されていますね。


例えば、同じ新宿を作家と歩いていても、村上龍的新宿、山田詠美的新宿、と全く違う風景になるんです。その人の世界にいる、という感覚ですね。その世界に一緒にいる人間として、ゼロから作品を作る作家を支えてあげたい、という編集者的愛情を覚えることが大切です。

―編集者が、「この作家にこんなことを書いてほしい」とアイディアを出すこともあるんですか。

ないですね。作家の中から出てきたものでないと、書くエネルギーが生まれてこないですから。ですから、なるたけ作家と一緒に過ごして、作家の愛情や意欲がどんなことに向かっているのかを知ることが非常に大切なんです。愛情が向かっている、ということは、積極的に書ける状態なわけですから。つまり、編集者として作品をものにするチャンスは、作家の周辺に常にあるわけです。そこからあふれたものをどう察知して、作家に明確にイメージにしてもらえるか、が勝負どころではないでしょうか。

―石原さんは作家志望の時期があったとか。編集者になられた経緯をお教えください。



高校生の頃、楽器屋さんで働いていた7歳くらい年上の女性を好きになって、つきあい始めたんです。彼女は小説が大好きで、ぼくに何冊もくれたりしていました。高3のとき、ぼくが東京の法政大学に行くことになって、彼女からフラれたんです。でもぼくは好きだったから、なんとか見返してやりたい、彼女が好きな小説を書く作家になれば振り向いてくれるんじゃないか、と(笑)。それで大学に入って書き始めたんです。新人賞に軒並み応募したんですが、落選ばかり続いていました。そうしているうち、角川書店の「野生時代」新人賞の審査員が中上健次、村上龍、三田誠広、宮本輝といった若い作家たちに変わったことを知り、これならひょっとしていけるかもしれない、と思ってもう1作書いてみることにしたんです。そうしたら、当時「野生時代」の編集長だった現・幻冬舎社長の見城から、最終選考に残ったという連絡をもらいました。結果、落選したんですが、それを契機に編集部でアルバイトをさせてもらうようになったんです。

―編集者としてやっていける、と思われたのは。

見城が「月刊カドカワ」に異動になり、ぼくも連れていってもらったんですが、そこで原稿取りの仕事をやり始めました。当時、山田詠美さんが『ベッドタイムアイズ』を出して、スキャンダラスな作品だ、と騒がれていました。彼女に短編の連作を書いてもらうことにしたのですが、その『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』が直木賞を受賞しました。ぼくが24歳のときで、編集者としては若いときの業績でしたね。あ、編集者でいけるな、と。それ以来、作家志望は捨てました。

―編集者でいける、というのは、どういった感覚でしたか。

相当ひどい小説とは言え(笑)、一応、自分でも書いていましたから、書き手の気持ちがわかったんです。あ、ここで苦労しているな、とか、この一行は余計かな、とかね。それを率直に作家に伝えることはできるんです。もっとも、22歳で編集者の仕事を始めたとき、見城からは、22年間生きてきたことだけでしか作家には応えられないんだから、率直に反応しろ、と言われていました。作家というのは孤独で、その中で生んだ作品について何かを言ってほしいんです。体で反応した言葉をぶつける存在になればいいということがわかってきていました。

―そうなるために、何か努力されたことは。

作家に手紙を書くことですかね。便箋に5枚から、多くて15枚ほど、作品のどこに引かれたか、自分の気持ちがどう変わったか、などを書くんです。相手は、いわば文章のプロですから、ごまかせないんですね。それが勉強になりました。それで、最後に、原稿を書いてください、とは書かずに終わることも多いです。この人が好きだから、からんでいきたい、まずは接近しておきたい、という純粋な気持ちですよ。

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