1985年以来、これまで 20年にわたって学生や教師・社会人の方々と一緒にカウンセリングの勉強を続けているが、研修会などで傾聴の重要性とパワーについて講じると必ず、「ただ聞くだけでいいのですか?」という質問を受ける。これは日本でもアメリカでも同じなので、さしずめ超文化的現象とでも呼ぶべきなのであろうか。それはともかく、もともとカウンセリングの基本が「聴く」こと、すなわち傾聴であることを考えると、これはいささか的はずれの質問と言わねばならない。そもそも傾聴とは、単に相手の話を「聞く」ことではなく、慎重に「耳を傾けて相手を理解する」行為だからである。相手を理解するには、言葉だけでなく、同時にボディーランゲージや抑揚・口調、年齢、生い立ち、性格、思考スタイルなど、その個人のコミュニケーションに影響をおよぼす様々な要素も考慮せねばならない。こうして理解した内容をできるだけ正確な表現でフィードバックし、それが相手に通じて初めて、「聴いた」ことになるのである。実際、傾聴はかなりの集中力と忍耐を要求される作業であり、きわめて困難となることが多い。このため「聞くだけ」とは言えても、決して「聴くだけ」などとは言えないのである。
「ただ聞くだけ…」の質問が出るたびに興味を引かれるのは、正直言って、問いかけた人物の考え方や価値観である。傾聴を「ただ聞く」ことと同一視する背景には、所詮いくら話を聞いたところで相手 ( クライアント、学生、社員、部下ら ) の役には立つはずがなかろう、という考えが潜んでいるのではなかろうか?あえて極言するなら、そこには相手の自主性を軽視し、問題解決能力を見下す先入観が露顕しているように思われる。こうした考えや価値観の持ち主には傾聴が不得意で、ついアドバイスや情報提供に先走り、積極的に相手を「リード」しようとするタイプの人物が多く見られる。これも場合によってはもっぱら傾聴に不慣れといった単純な理由からではなく、実は本人にすら自覚されないバイアスが原因しているのかもしれない。自己の良識と見解を過信する余り、相手に助言を与えずして本格的な変化や成長などありえるはずがない、といういわば一種の傲慢な思い込みである。
ユダヤ人精神科医としてナチ強制収容所の極限生活を生き延び、その体験を『夜と霧』と題した名著に著したビクトール・フランクルは、ある深夜、自宅で眠っていると突然見ず知らずの女性からの電話を受けた。電話の主はこれから自殺するつもりでいるが、死ぬ前に一度、かねてから尊敬しているフランクルの声を聞きたかったと述べた。文字どおり必死の状況である。事態の深刻さを察知したフランクルは、数十分間 にわたり この女性と話し、ともかく明朝一番、彼の勤めるクリニックに来るよう何とか説得した。約束どおりやって来た女性をフランクルはいち早く診察し、直ちに入院治療を施すことによって自殺の危機から救った。数ヵ月後、患者の退院に際し、フランクルが「あの夜、私のどんな言葉が自殺を思いとどまるように決心させたのかね?」と尋ねた。すると、女性はしばらく考え、「特に自分の気持ちを変えるような言葉はありませんでした。それよりも全く赤の他人から、しかも真夜中にこれから自殺するなどという無謀な電話でたたき起こされたにもかかわらず、先生は電話を切らず、親身になってじっと私の話を聴いてくださいました。この体験が、もう一度生きてみようという原動力になったのです」と答えたという。傾聴のパワーを示す実話である。もしフランクルがあの夜、彼女の話を「ただ聞くだけ」でアドバイスでも与えていたならば、結果は悲劇に終わっていたかもしれない。
誤解を避けるために明記しておくが、決してアドバイスや情報提供を否定しているのではない。傾聴のパワーを忘れないように、と言っているのである。聴いてこそ真の援助も可能となるのは、フランクルのケースが証明している。「ただ聞くだけでいいのですか?」 ひょっとすると、これはこれまで傾聴される喜びを味わったことのない人たちが投げかける質問なのかもしれない。 |