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―田尾さんはどういった高校時代を過ごされましたか
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部活で軟式テニスをしていたぐらいかな。3年の時、インターハイに出場しました。勉強はあまりしなかったと思います。田舎なので、海とか山で遊んでいましたね。遊び道具とかは何もないので、いかに遊ぶかを考えていました。砂浜に仕掛けをつくってうなぎを獲ったりしましたよ。
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関西学院大学に進学したのは
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実は、神戸大の受験日に遅刻して落ちまして(笑)。私立では立命館と関学を受けて、関学のほうが授業料が安かったのと、阪神タイガースのファンだったこともあり、京阪神地区の学校に行こうと(笑)。そもそも自分は、先生が「行け」と言った学校の1つ下に行く、というポリシーがありました。そうするとラクなんです。高校進学の際も、先生に勧められた高校よりも 1 ランク学力的にやさしい学校を受験し、入りました(笑)。
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なるほど。「鶏口となるも牛後となるなかれ」ですね。学生時代の思い出は。
大学祭でコントなどの出し物をやりたかったんですが、クラスの女子に猛反対されて、分裂したんです(笑)。しまいには「勝手にやってろ」って。そうして実際にやってみたら、本番当日は黒山の人だかりで、翌年は体育館を貸してくれて、そこも満員にしました(笑)。当時から誰かを楽しませること、人を動かすことが好きで出たがりでしたね。それと、誰かと同じものをやりたがらなかったところがあります。
―大学卒業後は、地元の広告代理店に就職されましたが
。
両親がいて長男でしたので、何の疑問もなく卒業したら地元に戻って就職しようと思っていました。とはいえ、アルバイトばかりしていて、就職のことなどほとんど考えていませんでした。4年の夏休みに帰郷したら、たまたま友だちが就職試験を受けるというので、私も同じ会社についていったんです。そうしたら受かってしまって。周りの友人たちに聞いたら、「広告会社の仕事は面白い」と言うんで、入社したくなりました(笑)。しかし、バイト漬けがたたって大学では15科目分、たぶん 30単位足りなくて、その時点でカリキュラム上最大16科目しか取れないという状況に陥っていた私は、内定が出て「卒業できなくても入社できますか?」ってことばかり聞いていました。4年間であの時ほど勉強したことはないくらい必死にやって、ギリギリ15科目取れましたが。
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何となく就職したものの、26歳という若さで情報誌の編集長に就かれましたね。どんな気概がありましたか。
入社4年目で「今度ウチの会社でタウン情報誌出すことになったから、編集長として行ってくれ」という突然の出向命令でした。ただの事務所が与えられただけで、何もない状態からなんと2カ月後に創刊しなければならないということだけが決まっていました(笑)。気概というより、物理的に情報誌をつくることで精一杯でしたね。徹夜してでもなんとかページを埋めなければいけないわけです。ライバル誌に早く部数で追いつき追い越すことしか頭になく、毎日毎日事務所に寝泊まりして、それこそ馬車馬のごとく働きました。でも、仕事は面白かったですね。特に、読者から投稿を募って構成する「笑いの文化人講座」という企画が人気を集めて投稿が増え始めた時は、最高に手応えがありました。
―その企画で、読者である中高生をつかまえる方法を磨いてこられたのですね。そのポイントとはどういったことなのでしょうか
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タウン情報誌を始めた時、『ビックリハウス』という雑誌が大好きで、そこにコピーライターの糸井重里さんの『ヘンタイよい子新聞』という投稿企画がありました。そこで糸井さんが投稿者へのコメントを書いているわけですが、投稿者を呼び捨てにしていたんですね。それがすごく小気味良くてインパクトがあったんです。さっそく自分なりに取り入れてみることにしました。それが「笑いの文化人講座」です。読者層の考え方やセンスにじかに接していたくて、読者をよく編集部に遊びに来させていました。オフィスに来た彼らをいきなり呼び捨てにして仕事を頼んだりと、彼らがどう接すればついてきてくれるかを試行錯誤していったという感じですね。
―それでわかったことというのは。
人には“子分願望”とでもいうような心理があると思うんです。ちょっと有名な人から対等な口の利き方をされるとうれしくなるという心理って、ありますよね。自分は編集長でローカルのラジオなどに出演していてある程度名が知られていましたから、そんな心理をくすぐってみたんです。それと、彼らは背伸びをしてきます。相手が17歳なら22歳を相手にしているつもりで、自分は23歳まで降りてサワサワ触れるといった感覚で話すんです。そうではなく、17歳にまで降りたら、相手にバカにされてしまう。あくまでも私の経験則ですが、彼らの実年齢ではなく「気持ちの居場所」にアプローチすると、ついてきてくれるんですね 。
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なるほど。そのアプローチの中味も肝心ですね。
大学の「人材活用論」という講義では、損益計算書や貸借対照表を使って経営の仕組みを解説しています。利益予測や投資判断、給与・賞与総額の決め方やその適正な配分方法などを解いていくことで、給料を上げるためには、自分は何をすればいいのかが自分でわかるようになるからです。というのも、近頃の若者は「理で動く」という傾向が強くなっていると思うからです。私が社長をしていた時、当時「新人類」といわれ始めていた若い社員が何人もいました。親会社から来ていた年配の役員が、「若い者は何を考えているのかわからん」と言うのです。若い社員から「月給を 100万円にするにはどうすればいいんですか」と聞かれて、「そんな夢みたいなことを考えていないで、いいから働け」と頭ごなしに言ったらしいんですね。その若い社員はどう見ても納得した顔をしていなかった。そんないくつかの小さなトラブルを通じて、若者は命令だけでは動かない、自分と命令とのかかわりに理があると納得できれば動く、ということがわかってきたんです。自分が若い頃は、命令されれば動いていました。でも、それは昔の価値観なんです。今の若者を使って若者を動かさなければいけない情報誌の仕事を通じて、彼らが何をどう言ったら動いてくれるのか、といったフィールドワークを積み重ねてきたという感じですね。
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田尾さんは、情報誌の「笑いの文化人講座」や「ゲリラうどん通ごっこ」などの企画、つまりアイディアを通じて人を動かす醍醐味を味わわれました。また、経営者として人材の活用法を、そしてうどんブームを起こすことで地域振興のノウハウも学ばれました。そういったご経験を踏まえて、今後、大学教授としてどういったことを目標にして活動していきたいと考えられていますか。
学生に対しては、とにかくほかの大学の学生には負けないアイディア開発の手法を身につけさせて、社会に出た時に「使える」といわれるような人材を育てたいと思っています。それと、観光振興などの個人的な研究活動もそれと同じくらいの比率でやって、そのノウハウを地元に還元していきたい。例えば、観光地の土産って、30年間進化していないんです。こんぴらさんに行くと、いまだにペナントや、何かの木に「根性」とか字を彫ったのを売っている(笑)。ゴルフボールに金の字のマークをつけたものなんか売ればヒットすると思うのに。こういう観光地の土産のマーケットって宝の山だと思うんです。なんとか開拓していきたいと思いますね。
―では、現在若者を受け持っている教育現場に対して、何かご意見は。
高校から講演を依頼された時など、「勉強して何の役に立つのか」ということへの答えとして、よく話すことがあります。
頭の中には無数の点々があって、数学の公式とか、歴史の年号とか、何か1つ覚えると点と点が結びついて1本の線が引かれるんです。最後まで問題が解けなくても、やれば途中まで線が出ていく。勉強することで、そうやって無数の線が引かれるんです。社会に出て仕事を覚えていく際に、これらの線が引かれていればいるほど、早く習得することができるんですね。仕事で何か問題に突き当たって、解決しなければならない時に、これらの線が役に立つんです。はっきり言って、高校で習うことで社会に出て役に立つことなどほとんどないと思います。桑畑のマークとか(笑)。こちらとしては、そんな“知識”に期待しているわけではなく、頭の中に線がたくさん引かれている、つまり飲み込みの早い実践的な人間であることに期待しているんです。
―では、なるべくいろいろなことを覚えなさい、ということですか
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教科書だけでも十分だとは思いますが、教えることの量は減らさないでほしいと思います。芸術家やスポーツ選手を育てるのならば、線を太くしていったほうがいいと思いますが、一般人は線の数が多いほうが絶対に役に立つと思いますから。
―どうもありがとうございました
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