最終回は「面接力」の育成方法について、ボクの意見をご案内して、この連載を終えることにしましょう。そもそも面接に関して、次のような考え方をしているのを再考することから始めるのが肝心です。
・受験者は面接官の質問になんでも答える必要がある(義務感)
・面接官がボク(わたし)、すなわち受験者を選考している(優位性)
・失敗するということは、あなた(受験生)の否定につながる(落伍感)
まず冒頭の「義務感」ですが、これはアメリカの刑事モノのよく見かける“ミランダ条項”、すなわち「自分の不利になることはしゃべらなくていい権利」を持つことを思い起こすべきです。
これまでも何度も繰り返しましたが、面接官に対して「ウソをつく」ことは絶対だめです。それと「多少大げさに表現した」や「特に聞かれなかったので答えなかった」こととは全く別物です。前者は「主観の相違」や「熱意のあまり」といった言い訳が、後者に関しては「思いが及ばなかった」やこれまた「主観の相違」といった言い訳が立ちます。
また、「面接」とは双方向のプロセスです。すなわち、相手(面接官)もこちら(受験生)を選り好みしているのと同時に、相手である面接官を通じて受験生も「この会社は自分の一生を託すのにふさわしい会社か?」と吟味する場でもあります。
ですから、ちゃんとした会社ほど「何か質問はありますか?」と、反対に自分の会社の良いところや、時として悪いところをつまびらかにすることで、より受験生の関心を買う努力を怠らないものです。その意味で、面接の最後の「何か質問は?」とは、お互い相手への己の関心の深さを表明するとても大事な瞬間であり、一方が他方にとって圧倒的な優位性を持つものではないことがわかります(例:「内定辞退」「選考の結果、不採用」)。
面接はしかし、受験生にとっては内定をもらえないことには、その気になっても「ふることができない片思い」なものとも言えます。その意味において、前述の「優位性」とは受験生にとって、絶対的な優位性を持つものではやはりあり得ません。
よく「受かる子は何社からも内定をもらう」ことはありふれていますし、同様に「落ち続ける子はどこにいっても落ちる」のも、これまた悲しい現実です。結局、「落ちる子」には「受かりつづける子」にある何かが欠けていることになります。
それは前回までにお話してきたように、決してひとつの要因でそうなるわけではなく、たとえば「成績もさることながら、なんか若者らしい覇気が感じられない」とか、「やる気もあって成績もいいのだが、どうもウチに合いそうもないタイプだ」といった、分かったような分からない理由の場合も多いのです。
そんな時は、たとえ高校生でなくともいたく凹(へこむ)ことになり、また「オレはどうせ必要じゃないんだ」「わたしなんて誰からも愛されていない」といった疎外感が伴う落伍者意識が強く芽生えるものです。
ですが、前述したように「ただなんとなくウチに合わない」といったケースが多いことを決して忘れてはいけません。これをもって、昔の人はよく「ご縁がなかった」と指すわけですが、この言葉は決して失当ではありません。
そう、たまたま「ご縁がなかった」のです。ですから、決して自分を責めたり、また相手の面接官を恨んだりといったことはしないことです。
こう考えると、「面接力」とはそれを手にすることがなかなか難しいことのように思えますが、簡単ではないにしても決して誰にとってもムリな相談というわけではありません。
もっと複雑な要因がからみあって「面接力」が成り立っているのも事実ですが、少なくとも最低この3つの項目に対するあなたの理解と方針が決まっていることで、それを知らない子にくらべて格段と差をつけることができると思います。 |