キャリアガイダンスVol.433
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 生徒が「どこにいても〝自分で学んでいける〞チカラ」をつけるのが学校の役割であり、その手段として、オンライン教育には大きな可能性がある。「できることを、やってみよう」というゼロイチの発想が、先生個人の取り組みから学年、学校全体へと広がり、まさに「教育の目的」や「学びの本質」を自らボトムアップで示す結果となった。 そう考えると、今回の一斉休校は学校において「大手術のチャンス」だったとも言えるのではないか。怪我をして膿がたまっていた患部を前に、薬を塗ったり絆創膏を貼ったり右往左往していたところに、名医が堂々と切開して治すかのごとく、抜本的な治療に手をつけてよいことに誰もが気づかされた。この経験は、今後の学校のありようを大きく左右することは間違いない。本校では、オンラインとリアルの「ブレンディッド・ラーニング」で、より個別最適化した「学習者中心の教育」を推し進めていきたいと考えている。休校が明けた先にあるのは、「かつての学校に戻す」ことではなく、「新たな学校のカタチを創る」ことだと覚悟したい。 では、これからの学校で大切なものは何か。 戦国時代、天下統一の結果として起こったことのひとつに、度量衡の統一がある。関東で年貢を払うときに使われる升と京都周辺の升、中国地方の升では容量が全然違っていたものが、全国で共通規格化された。それによって醍醐寺の五重塔など、それまでに建てられた古代の塔のような「職人の天才的な仕事」ができなくなった。一方、江戸時代になって建てられた塔は規格物。建売住宅を作るように仕様が全て定まっていて、全国一律に同じような塔を建てられるようになった。(『日本史 自由自在』本郷和人著、河出書房新社) そうなると当然、要求されるのは「規格に従って忠実に手早く仕事をする職人」だ。これを教育に当てはめてみるとわかりやすい。本来、教育という営みは「醍醐寺の五重塔」を建てることだったはずだ。それが、いつの間にか〝効率〞というコトバに染められ、「建売住宅」を建てることに変わってしまった。規格化された一律の対応を「義」とする体制、それを維持することが「善」という価値観、周りに合わせてみんな一緒にという「脅迫」めいた圧力…そういったものを正義だとする学校や先生が量産されてきた。 ここで、いま一度みなさんに問いたい。つくりたかったのは「建売住宅」ですか?…と。 日本ほど、金太郎飴のごとく画一化された価値観で生き、それを生み出す制度が顕著な国はない。学校があまりにも同質性を求め、「みんな一緒」を賛美してきた綻びが随所に出始めている。自分を犠牲にして違いを隠し、周りと同じように振る舞うことで心身が悲鳴をあげ、不適応という形で身を守る生徒もいる。 よく考えてみよう。人と同じである必要がどこにあるだろう。むしろ、違う方が魅力的であり、持って生まれた「かけがえのない個性」をお互いに認め、違いを協働のチカラに変えることでこそ社会が維持され、豊かになっていくのではないだろうか。 新型コロナ感染拡大の影響で、これまでの当たり前が脆くも崩れ去った。いまこそ、それぞれの学校が「違い」を発揮し、できることをやっていく時だ。周りと同じことができないと悩まなくていい。他との違いをより鮮明にし、その価値を世に問うことの方が大事だ。同じであることで救われる対象と、違いがあることで救える対象はどちらが多いか。その答えは、言うまでもなく明らかだ。やすい・ながとし●1982年滋賀女子高校(現・滋賀短期大学附属高校)に赴任。2002年、教員生活に区切りをつけローカルFM局を設立。個人でITサポート事業も始める。06年、教育現場に復帰。滋賀学園中学・高校、沖縄の学校法人アミークス国際学園を経て、19年、学習者中心の教育メソッド「ドルトンプラン」の実践を掲げて同年開校したドルトン東京学園中等部・高等部の参事(副校長補佐)となり学校づくりに携わる。20年より同校副校長。自らを「学校に身を置く自由人」と呼ぶ。多様性こそが、いま必要とされる課題ドルトン東京学園中等部・高等部では、学年の枠を超えた協力体制により、年度始めからオンライン授業に取り組んでいる。そのなかで、教室に入りづらかった生徒がオンライン授業には積極的に参加できたことなど、いくつもの気づきがあったという。生徒たちは何を思い、教師はどう動いた? そして、見えてきたもの今、この時の学びを未来へつなぐ312020 JUL. Vol.433

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