カレッジマネジメント189号
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筆者はひと頃まで名古屋に住んでいた。新幹線を使えば、東京へも一駅、京都へも一駅でいける。そこで機会を見つけては東京、京都の両方へ出かけていった。この二つの町の雰囲気の相違が面白かった。東京はどちらかといえば官庁的。それに対して京都は自由闊達。自由なアイデアの飛翔を楽しむ雰囲気があって、それが面白かった。そこで十数年前、『京都帝国大学の挑戦』という本を書いた。創設期の京都帝国大学で起こったある改革の顛末を書いたものだった。時代は20世紀の初頭。その当時の東大では、教授が教壇の上に立ち、講義ノートを読み上げ、学生は一語一句間違えないように書き写し、試験がくればこれまた一語一句正確に書き写すという機械的な教育が行われていた。京大教授達はかつては東大でそういう教育を受けたうえで、京大新設の話が起こると、ドイツのベルリン大学に留学し、そこで全く違ったタイプの訓練が行われていることを発見して驚いた。帰国後彼等は東大型の教育を廃し、ドイツ型の教育を京都の土地に根付かせようと、改革に着手した。その結末がどうなったかは、ここで書くスペースがないので割愛するが、京大はその頃から日本が体験したことのない新たな実験を試みる心意気があった。そのDNAがいまだに続いているのか、本書では現代の京大が実行している、様々な新実験が紹介されている。例えば、教養教育の改革では、「国際高等教育院」という新しい組織を立ち上げ、全学から教養教育に命をかける教員を集め、これまで順序のないまま、相互に関連のないまま、てんでバラバラに実施されてきた教養教育(それをジャングル方式といい、ひと頃では1000科目以上の教養科目があったという)を、分野ごとに分け、順序をつけた系統性のあるものに再編成したという。しかしよくみると、万事を系統性という枠に押し込むのではなく、かつてのジャングル方式の長所を生かす工夫もちゃんとしている。例えば「ポケット・ゼミ」がその実例で、大学に入ったばかりの一年生を対象に、いきなり研究の最前線の面白さと生の研究方法を体験させる機会を与えている。このポケット・ゼミは好評で、中にはインドネシア、中国、アフリカまでフィールドワークに出かけるポケット・ゼミもあり、学生の評判は高いという。たしかに1000の教養科目を相互の系統性なく並べただけでは学生を混乱させるだけだろう。しかしそれだからといって、万事を一定の秩序のなかに押し込めればすむというものではない。それでは学問とか学習につきものである知的な躍動性が抑え込まれてしまう。このような個々の教員の自由な発想を生かすポケット・ゼミがあるからこそ、他方用意された秩序立った教養教育が生きてくるのだろう。京都大学はさらに大学院をも改革し、「思修館」という独自の組織を作り出している。これは定員わずか20人の少数精鋭の組織で、授業は英語でやることを原則としている。しかも5年間全て合宿制で、共同生活をしながらそのなかで培われる切磋琢磨を期待している。なぜこのような組織を作ったのか。それは深いが狭いという従来型の大学院教育の弊害を打破し、広い分野を横断する高い俯瞰力を持った高度教養人を育成しようとする狙いがある。例えばこの大学院では3年次に「総合学術基盤講義」が用意されていて、ここでは医薬・生命、情報・環境、理工、人文・哲学、語学、芸術、経済・経営、法律・政治の8分野の教養教育を与えることが目指されている。なぜ思修館という英語にも訳しにくい名称を選んだのか。その説明は本書に譲ることにする。松本 紘 著『京都から大学を変える』(2014年 祥伝社新書)自由な実験的思考の根付く京都知的好奇心と横断的思考力を最大化する京大の取り組み

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