カレッジマネジメント191号
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17くことになる。1学部4学科体制が大きく動いたのは1990年代に入ってからだ。単科大学でやっていくことが次第に難しくなっていたと清水学長は言う。当時社会的ニーズの高まっていた福祉人材の育成を目指し、1998年に社会福祉学部が名張学舎に設置された。さらに、2000年には教養教育担当の教員を中心に、文学部にコミュニケーション学科が設置されている。このように、皇學館の130年は、時代の波に翻弄されながらも、国文・国史を中軸に据えつつ、次第に社会の課題やニーズに応え得る柔軟さを新たに獲得してきたプロセスとして描くことができる。ただ、時代の変化を前に皇學館が依拠する理念にブレはない。明治33(1900)年に神宮祭主賀陽宮邦憲王によって出された「令旨」が建学の精神として今も生き続けている。ここに謳われているように、皇學館教育は現代日本の不足を補うことに加え、社会から要請されていることに積極的に応えていくことを使命としていると学長は述べる。学長はこの「令旨」を入学式で朗読し、趣旨を説明するそうだ。各教員も指導学生制度の懇談会の中で学生に説き、学生手帳の最初にも掲げられている。令旨が示す建学の精神は不変だ。社会福祉学部の設置と廃止近年、皇學館は果敢な挑戦を続けているが、新たな挑戦には少なからず困難が伴うものだ。皇學館における一学部制から複数学部制への転換は必ずしもスムーズに進んだわけではない。社会福祉学部は、立地する名張市はもちろん、三重県や伊賀市からの熱心な誘致を受け、公私協力によって設置された学部だった。しかし最初の数年こそ好調に推移したものの、その後は急坂を転げ落ちるがごとく、打つ手に効果が表れなかったと清水学長はふり返る。そもそも名張市は、伊勢市とは山を隔てて文化圏も経済圏も異なり、大阪のベッドタウンとして急速に人口増加を続けていた土地だ。15万人都市を目指す名張市は、大学誘致を市の中核事業に位置づけ、その成果に大きな期待を寄せていた。かたや皇學館も、関西圏からの学生獲得に期待を掛けた。この状況を客観的に見れば、両者の期待は妥当なものだったに違いない。しかし実際にふたを開けてみると、志願者数は伸び悩んだ。関西圏からの志願者が飛躍的に増えることもなかったという。そのことは図表1に見る通りだ。2000年代半ばから後半にかけて全体的な志願者リクルート カレッジマネジメント191 / Mar. - Apr. 2015特集 地域で選ばれる大学神宮皇學館教育ノ旨趣ハ、皇国ノ道義ヲ講ジ、皇国ノ文学ヲ修メ、之ヲ実際ニ運用セシメ、以テ倫常ヲ厚ウシ、文明ヲ補ハントスルニ在リ。夫レ業勤メザレバ精ナラズ、事習ハザレバ達セズ。況ンヤ本館期スル所ノ学ノ重且ツ大ナルニ於テヲヤ。本館学生深ク此ノ旨ヲ体シ、常ニ師長ヲ敬重シ、館則ヲ遵守シ、黽勉努力、以テ他日ノ成業ヲ期シ、夙夜怠ルコト勿レ。賀カヤノミヤクニ陽宮邦憲ノリ王オウ令リョウジ旨注)志願者数は、AOエントリーを含む図表1 志願者数・志願倍率の推移

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