カレッジマネジメント191号
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18数が低減し続け、それが皇學館の経営を圧迫していったであろうことは想像に難くない。社会福祉学部の不調は、皇學館の存続にとって大きな試練だった。しかも、名張に置かれた同学部は「地域の大学」として高い期待が寄せられていただけに、皇學館の経営状態だけで去就を勝手に判断できるものでもなかった。清水学長が言うように、皇學館に「道義的責任」があったのも確かだが、撤退やむなしの状況にあったことも事実。当時の理事長・学長は、まさに「断腸の思い」で名張からの撤退を決断したと清水学長は述べる。幸いしたのは、新たな校地を探していた近畿大学工業高等専門学校が、熊野市から名張学舎跡地に移転することが決まったことだ。皇學館の名張撤退と、近大高専の名張移転は、空白期間を置くことなく2011年4月に実現した。このおかげで名張市から高等教育機関が消滅してしまう事態が避けられ、皇學館としても少し肩の荷を下ろすことができたという。キャンパス移転はどんな大学にとっても大事業だが、この局面を乗り越えたことが、現在の皇學館大学へと一皮むけるための試金石になったと見ていいだろう。図表1にあるように、志願者数や志願倍率が社会福祉学部廃止の2009年を境に上昇に転じていることから、逆境を新たな活力に変えた皇學館の姿を読み取ることができる。学部創設がもたらした志願者増こうした志願者増には、この時期に実施された学部創設が奏功した。いずれも、皇學館の特性を活かしつつ創設された学部だ。その一つは、社会福祉学部の廃止に伴って創設された「現代日本社会学部」だ。社会福祉学部は18歳の心にアピールできずに学生を集められなかった。だからといって、単純に社会福祉の看板を架け替えるだけで済む話ではない。学部にいる社会福祉系教員を一切解雇せずにどう転換を図るかも切実な課題だったと清水学長はふり返る。導かれた答えが現代日本社会学部だった。2010年度には社会福祉学部の募集を停止し、現代日本社会学部を新設、翌年度から学生も教員も全て伊勢学舎に統合した。新しい学部には、現代日本が抱える課題群ごとに政治経済分野、社会福祉分野、地域社会分野、伝統文化分野が設定された。つまり、学部廃止で「社会福祉」の火を消したわけではなく、規模を縮小して継承しつつ社会福祉を現代日本の課題として位置づけ直し、「神道福祉」としても性格づけることにしたのだという。全ての学部が伊勢学舎に統合されることで全学一体の学風が醸成されたと清水学長は言う。「文学部で過去の歴史・文化・文学を教育・研究し、現代日本社会学部でそれを活かしていかに現代日本に実現していくのかを考える」体制が形成された。折しも2012年度に創立130周年/再興50周年事業が、翌2013年度には伊勢神宮の式年遷宮が続き、皇學館が注目を浴びたことで大学全体が結集し、外に打って出る構えができたと学長はふり返る。そして、近年の志願者増を支えるもう一つの学部が「教育学部」だ。2008年、文学部教育学科を教育学部(教育学科)として独立させた。前述の通り、教員養成は皇學館が歴史的に得意としてきた領域の一つだ。戦前の神宮皇學館時代から国語・漢文、歴史の分野で優れた教員を輩出する機関として定評があった。現在もその実績を受け継ぎ、皇學館出身の教員に対する地域社会の信頼は厚いと学長は説明する。事実、教員採用試験の合格率は県内トップクラスの実績を誇る。2014年度には三重県の公立小学校の採用数が93名(新卒・既卒者含む)となり、三重県内の占有率は32%に達し、他を大きく引き離している。教育学部にはスポーツ健康科学コースも置かれ、体育教員の養成も可能だ。さらに、文学部の専門性を活かして国語、社会(地歴・公民)、英語の教員免許も取得可能だ。こうした多様なニーズに応える教員養成システムが高い支持を集めていることが、今の皇學館における志願者増を支える主な要因だ。変革を支える意思決定と今後の課題では、皇學館がこうした変革を進めるための意思決定はどうなっているのだろうか。名張学舎の撤退時、理事長・学長のトップダウンによるガバナンスが機能したのは既に見た通りだ。こうした学部リクルート カレッジマネジメント191 / Mar. - Apr. 2015

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