カレッジマネジメント200号
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16リクルート カレッジマネジメント200 / Sep. - Oct. 2016ている。だが、そこでの政策自体が十分に練られたものには見えない。にも拘わらず、大学はわずかな資金獲得をめぐってその政策に左右されている。あるいは改革の実はともあれ、形式主義的ともいえる改革を志向しているように見える。 別のところで詳しい分析を行ったが、その一例はスーパーグローバル大学支援事業への対応に見ることができる。世界ランキングの順位を上げることが主な政策目標となって、英語による授業等を増やすことが目標とされた。しかし、その中身を詳しく分析すると、「外国人教員等」の数値目標に見られるように、実効性よりも数字合わせとしか言いようのない改革案が出されていた(注2)。それでも、その波に乗りおくれまいと、私学を含めグローバル化対応の大合唱が起きた。 また、国立大学に限られる話であるが、昨年6月の文科省による「文系学部廃止論」騒ぎにも、日本の大学と国家とのパワーバランスの歪みが現れている。原因となった文科省の「通知」の真意がどこにあったかはおくとして、騒然となるだけの背景は、近年の日本の「国家と大学」のパワーバランスの変化にあったと考える。誤解を生むような、あるいは熟慮を欠いたトップダウンの政策であっても、大学は政府の意向に過敏にならざるを得ない。ある意味、大学側の抵抗力、あるいは独立性の弱体化を示す出来事であった。 このように、日本の大学と国家とのパワーバランスが、後者に傾きつつある背景には、大学の財政基盤が欧米の有力大学に比べ盤石ではないことに加え、社会からの信頼基盤の弱さにもあるのだろう。文系学部廃止論がまことしやかに受け止められたのも、文系学部が社会の「役に立ってない」という暗黙の前提が社会の側にあり、そこを衝かれたからだ。すぐに役立つ教育をという判断基準自体に疑義を呈することもできるが、そうした主張に説得力を与えるところまで、日本の大学は特に教育面でその実力も実績も社会で受けいれられていなかったのかもしれない。古典学を含め人文系中心で、すぐに役立つわけではない教育を長年行ってきたオックスフォードの歴史から見ると、universityと呼ばれるものへの社会の期待や受け止め方の違いである。もちろん、現代的な「役立つ教育」への期待もあるが、オックスフォードでは、それは時代の要請に合わせた専門職教育を大学院が提供することで応えている。 もう一つの例は、現在議論されている新しい入試制度への対応である。日本では入試に論述式や面接を入れると「客観性」や「公平性」が損なわれるのではないかと心配される。それも見方を変えれば、大学への信頼の希薄さの表れといえるだろう。オックスフォードでは学部生の入学には面接が大きな比重を占める。そこでは全くの主観的な評価が大手を振る。主観的に決断を下すこと自体に揺るぎない自信を持っている。それを社会が受けいれているのも、大学の権威の受容があるからだろう。従って、日本のような批判は起こらない。 国家とのパワーバランスにおいて、大学は社会を味方につけなければ有利な地歩を得られない。横並びの平等主義の進んだ戦後の日本では、大学はエリート主義の鎧をまとえず、権威に頼って社会からの信頼を得るわけにはいかない。その分、国家という権力に従う余地が大きくなる。個人主義の教育 オックスフォードでの教育の特色であるチュートリアルについては、ほかのところでも紹介をした(前掲書)。学生2、3人に1人の教員が毎週行うこの個別指導の仕組み

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