キャリアガイダンスVol.426
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して利用されるだけです。 誤解のないよう強調しておきますが、「能力」を身につける必要性は認めています。産業界からの要請だとしても、コンピテンシー自身を否定するつもりもありません。複雑な現代社会に適応するためにも、正解のない問題の解決に向きあうためにも、等しく育成しておく必要があると思います。だからこそ、その能力を主体的に生かす「自立した人格」の育成も忘れてはならないと言いたいのです。そうでないと、自らの将来を決める責任ある主権者は生まれません。「人材」育成は訓練で可能ですが、「人格・人物」の育成は教育でしかできません。その教育を担う教師が、単に教科を教えるだけではなく、教科を通じて、人としての在り方や生き方まで教える。フランスの哲学者ギュスドルフは『何のための教師』(みすず書房)という著書で、「学校は人格が教化される場所」「教師は教え授けるが、しかし教え授けるものとは別のものを授ける」と記しています。人格という目に見えないものを育むことの教育的価値は、多くの先人が伝えているところです。 先ほどから「自立」という言葉を力」はあるものの人格的に未熟な人間が育ってもいいのか、という批判を呼ぶことになるでしょう。教科の専門家としていくら能力があっても、信用ならない教師に、子どもが尊敬の念を抱かないように、能力以前に、信用という資質がなければ人間関係が成り立たないのはどこの世界も同じです。 能力重視の流れはまた、コンピテンシーが経済的な文脈から出てきた言葉であることから考えて、結局は質の高い労働者としての能力育成のみに傾きかねない危険性もはらんでいます。それではいけないと、議論の過程で「資質・能力」と両者を区別するようにしたわけですが、基本的な流れは変わっていない気がします。 私が、特に危機感を抱いたのは、現行の高等学校学習指導要領(2009年告示)における中央教育審議会での議論の際、文部科学省作成の文案に「人材」という言葉が出てきた時です。高等教育ならわかります。でも、高校生を人材という視点で捉えることに違和感を抱きました。 能力ばかりが取り上げられ、それを何のために使うのかという、主体の側の自立した価値観が軽視されたとしたら何の意味があるでしょう。「人に言われたからやります」ではロボットと同じ。それこそ都合のいい人材と使っていますが、自立と言ったとき、多くの人が頭に浮かべるのは経済的自立、社会的自立かもしれません。しかし、より大事なのは精神的自立です。誰かに依存し、その権威を借りるのではなく、自らの意見をもつこと。 もちろん、人間は、他者への依存を完全に断つことなどできません。しかし、母親や兄弟から始まり、友人や教師、思想家、さらには宗教に至るまで、依存の対象や質を変化させていくことはできます。すなわち、単一のものから複数のものへ、直接的なものから間接的なものへ、具体的なものから抽象的なものへ。そうやって依存性を発達させていくなかで、国や社会からの要請を対象化し、自分で分析・吟味し、望ましくない点があれば改善していく。そうした能力と自由を身に付けることが、精神的に自立しているということです。 その点、「出藍の誉れ」という故事成語は、教育の本質を端的に表している言葉だと思います。「青は藍より出でて藍より青し」と言われるように、古い世代に育てられながらも、若い世代が、大人の描く価値観を乗り越えて成長し、精神的に自立し、自らが求める社会を自分たちで決めるようになる。そのことを古い世代も、自らの誇りとする。それこそ、社会の望ま社会を対象化し、吟味批判し改善する。未来の国を担う責任ある主権者を育むことこそ教育の目的であり価値経済的・社会的自立より大切な依存性の発達による精神的自立自立した人格の形成なくして何のための教師か安彦忠彦(神奈川大学 特別招聘教授/名古屋大学 名誉教授)312019 FEB. Vol.426
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