キャリアガイダンスVol.436
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 という私自身は、「意見が言えない」「議論ができない」とか、そもそも「意見自体がない」「やりたいことが見つからない」といった学生相手に、どうすれば火をつけられるか悩み、試行錯誤してきた歴史があります。ここでは多くは語れませんが、例えば、「この教室では何を言ってもよいし、失敗してもよい」といった場づくりに始まり、折に触れ学生同士が相互触発する対話の場を設けたり、本気の大人たちとの出会いを通じて刺激を与えたり、自由な時間をたっぷり設け興味を焦点化させたり、いつ・どこで・誰と・どの 「まじめ」も「素直」も悪い意味の言葉ではありません。ただ、どのような言葉も文脈に規定されるもの。「うちの生徒は、まじめで素直なんですけどね…」という表現には、「自分で考えることが苦手」とか、「人の言うことを鵜呑みにする」といった批判的含意があるのでしょう。その裏には、「もっと主体的に」とか、「自分で未来を切り拓く気概をもってほしい」といった本音が見え隠れします。 「おとなしい」も、多分に含意のある言葉です。ただそれが、「内向的で、皆と仲良くしているように見えない」という意味で使われているとしたら、私にしてみれば大した問題ではありません。表面上は静かでも、自分なりのやり方で人と心地良い関係性が築けているのであれば、それでいいと考えているからです。 一方、見過ごせないのは、「おとなしい」が、「自分の意思を表明できない」とか、「必要以上に周りの空気を読んで声を挙げられない」といった意味である場合です。こちらは深刻な問題を内在していると思うし、私自身、そういう若者が増えることは民主主義の根幹に関わることとさえ思っています。なぜなら民主主義とは、各自が自分の意思をもちより、そのうえで皆の利益になるように話し合い、合意を見出していくプロセスであるから。民主主義=多数決ではありません。むしろ、少数意見を切り捨てるような多数決は非民主的とさえ言えます。小中高を通じ、そうした多数決で事を進める経験をたくさんすると、「何を言ったって最後は多数決だろ。意見なんか言うだけ無駄じゃないか」という学習性無力感にさいなまれる可能性さえあるかもしれません。そうしたことも手伝って、意思を表明することを避ける人ばかりになるとどうなるか。民主主義が成り立たないどころか、一部の人間が支配する社会になりかねません。そこまでいかずとも、強者の決めたルールに従うことで割を食っている例など、世の中に無数にありますよね。おかしいことにおかしいと言わないうちに、自由が奪われているのです。 自由に生きるには力が必要です。理不尽な権力に対峙するには、論理や知識をベースに、「こういう理由でおかしいじゃないか」とズバッと射貫く力が必要です。つまり、「まじめで素直でおとなしい」だけで自由に生きられるほど世の中甘くないということ。時として、そうした厳しさを伝えることも教師の役目ではないでしょうか。委縮する社会だからこそ発揮したい「やっちゃいなよ」の精神「まじめで素直でおとなしい」という表現に潜む深刻な課題感とそこから一歩踏み出すことで広がる生徒の可能性について、哲学者・教育学者の立場から苫野一徳准教授にお話しいただきました。熊本大学教育学部 准教授 苫野一徳取材・文/堀水潤一 撮影/加来和博声を挙げられないのは、民主主義における致命的な問題一歩踏み出した先の世界を見せるのも、先を行く者の役割社会、大学、高校現場からのメッセージ②242021 FEB. Vol.436

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