キャリアガイダンスVol.437
21/66

答えをもちません。あくまで、認識と関係性の固定化の病いに陥っている参加者に方向を示し、創造的対話を促すトリガーとして存在するのです。 冒頭の「象の鼻くそは、どこに溜まるのか」という問いも、その答えを塩瀬さんはもち合わせていませんでした。子どもたちが「えっ、どこなの?」とぐっと関心を寄せてきたとき、平然と、「俺もわからないんだよね。どこだと思う?」と返したのです。 このエピソードを、対話を誘発する良質な問いの例としてご紹介しました。しかし考えてみると、答えがわからないことを問うていることと、「自分もわからない」と素直に伝えていること。むしろ、これらの方が問いの内容よりも重要と思えてなりません。だからこそ、子どもたちは自由に思考し、対話し続けることができたのでしょう。 誌上研修の最後に、ファシリテーターの和泉はこうまとめました。「なぜ対話が必要なのか。それは共に生きるとで、本音やその奥に潜む信念にまで迫れるかもしれません。 参加者が規範に縛られすぎているときも同様です。教室にはリーダー的存在や、場を盛り上げることを期待された生徒もいます。そうした生徒が、ある程度役割を演じることを悪いこととは思いません。けれど、規範的な役割が入りすぎ、本音との乖離が起きるのは考えもの。そういう場面では、「このクラスはどうあるべきか」のような大きな主語ではなく、「あなたはどうしたいの?」といった「私」を主語に語れる問いを放つといいでしょう。その後で、少しずつ主語を高い次元に置き換えていくことが有効です。 最後に、ここでいう「問い」と「発問」の違いについて。発問とは、授業のねらいを達成するために、生徒に投げかける問いかけや課題のこと。答え(正解や考えを深めるべきこと)を知る先生が、知らない生徒に投げかけることが多く、生徒に思考を促す際のトリガーと言えるでしょう。 一方、対話の場における問いは、ファシリテーターも参加者も、その時点でため」と。その通りだと思います。このインタビューも、それできれいに締めることはできますが、少しだけ「私」の本音を加えさせてください。 ワークショップデザインを専門にしているためかよく誤解されますが、私は〝対話の人間〞ではなく、〝学習の人間〞です。人とわかりあいたいとか、利他的に何かをするよりは、自分が、その時々にしたいことをするタイプ。新しいことに挑むことが何より楽しく、そのために学び続けてきました。ただ、学習って根源的には一人ではできません。隔絶された状況で、新しいことをし続けることも難しい。そこで自分とは違う考えをもつ人たちと関わるようになり、博士論文を書き上げた瞬間に会社を設立。結果、一人では叶わぬこともできるようになったし、人生が豊かになったと思っています。 今の話は、個人的なことではありますが、先ほどのキャリアの考え方と重なる部分もあります。子どもたちが自分らしさを最大限発揮できる力を身につけることは大切です。でも社会は、それだけでは完結しません。だから、他者と一緒に新しい何かを生み出せるスキルをセットで磨くことは、その人にとっても、共に生きる人にとってもハッピーにつながる。その手段が「創造的対話」なのだと思います。共に育みたい、自分らしさを発揮する力と他者と一緒に新しい何かを生み出す力他者との関わりを通じて、自分らしさはより活かされる問いのデザイン創造的対話のファシリテーション(安斎勇樹・塩瀬隆之 著/学芸出版社)組織開発、学校教育、地域協働など、さまざまな場のワークショップにおいて創造的対話を引き出す「問い」に注目し、ファシリテーターに必要な思考とスキルを事例を交えながら解説。対立を乗り越え、新たな価値を創造する「対話」問いが誘発する「創造的対話」212021 MAY Vol.437

元のページ  ../index.html#21

このブックを見る