けないし、それに備えた教育が必要というのが私の主張です。学校教育が、社会に出る前の準備期間であるならば、イデオロギーではなく、現実に即さなければならないと思います。なのに、分断が顕在化されにくいがために克服するシステムが育たない。いきなり変化がやってきたら大混乱が生じ、社会がもたなくなると思うのです。 混乱は、既に身近なところでも起きています。例えば、私が長く関わらせていただいている、ある島の話です。その島には、幼稚園から高校まで一校ずつしかありません。クラス替えはほとんどなく、顔見知りばかりの環境で子どもたちは育ちます。にもかかわらず、先駆的にコミュニケーション教育を取り入れようと尽力された島の町長や教育長が、その理由をこう話してくれました。「自分たちは、島を出るまで〝他人〞と接したことがなかったから、島外でのコミュニケーションで苦労した。今、かつてと比較にならないくらい多くの若者が一度は島を出る。その子たちに同じ苦労はさせてくれないんだ」と嘆くか、「どうせ言ってもわからないだろう」と諦めてしまう。中には、相手の意見によって自分の考えが変わることを〝敗北〞と捉えたり、自分に嘘をついている感覚に陥ったりする人がいるかもしれません。本当の自分があるとすれば、それは他者との関わりを通じて形成されていくものなのに。 ただ、それは致し方のないこと。対立の歴史が長く、異なる民族や宗教をもつ国々が地続きで接しているヨーロッパの場合、必然として対話の知恵を働かせてきました。自分は何者で、どんなことを考えているのかを、きちんと他者に伝えたうえで、何とかして合意形成する必要があるからです。いわば「説明しあう文化」がある。 対して日本の場合、実際には隠微されたさまざまな問題があるにしても、基本的には等質の価値観や生活習慣をもつ者同士の集団の中で、「察しあう文化」を形成してきました。 どちらが良くて、どちらが悪いという話ではありません。ただ、世界的には後者は少数派。今の潮流を考えたとき、多文化共生型の社会や対話のスタイルに適応していかなければいかい合って話すこと」と出てくるのですが、どうもピンときません。先人の解釈なども参考に、私なりに定義すると、「対話」(dialogue)とは、異なる価値観や文化的背景をもつ人たちとの価値観のすり合わせ。あるいは、知った人同士でも、何かに直面して価値観が分かれたときに起こるやりとりのことです。 その点、親しい人同士のおしゃべりを指す「会話」(conversation)とは異なるし、字面の似た「対論」(debate)とも違います。AとBという異なる論理があったとして、対論の場合、それらがぶつかった結果、一方が従う必要がありますが、「対話」の場合は両者をすりあわせることでCという新しい結論が生まれることもあります。そう考えると、対話的な精神とは、異なる価値観をもつ人との出会いによって自分の考えが変わることを潔しとする態度。さらには、そこに喜びさえ見いだす態度のことではないでしょうか。 けれど、日本人はこの「対話」が苦手です。ヨーロッパでは、些細なことで対話が始まり、なかなか終わらないのが常ですが、私を含め、海外に進出したての多くの日本の芸術家は、その時間に耐えられません。「何でわかっられない」。察しあう文化の中で育てられながら、突然、異文化理解などの高度な能力が要求されることに対する大変なご苦労があったのです。 問題を抱えているのは都市部も同じ。本来、放課後の公園における年齢を超えた交流や、兄弟姉妹や祖父母、地域の人々との関係の中で、対話のスキルは磨かれるのに、そうした機会は極端に減っています。その一方で、SNSなどを通して帰宅後も学校内の人間関係に引きずられ、四六時中、同じキャラを演じなくてはいけない。私たちの時代にはなかった、今の生徒の置かれたつらい状況です。 社会的な機能が働いていないのに、それを学校に負担させることの問題点はともかく、子どもたちには社会で苦労しないだけの最低限のコミュニケーションスキルが必要です。けれど、当の本人に「伝えたい」とか「相手のことを知りたい」という気持ちがなければ、そうしたスキルが定着するわけがありません。では、「伝えたい」という気持ちはどこから来るのでしょうか。狭い人間関係の中で獲得の機会を失うコミュニケーションスキルフィクションの力を借りつつシンパシーからエンパシーへ対立を乗り越え、新たな価値を創造する「対話」初めはきっと「わかりあえない」。でもそんな“対話”から希望は生まれる
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