キャリアガイダンスVol.437
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 そこにこそ、演劇あるいは演劇的手法の役割があります。ある設定に基づき、自分たちで台詞を考えながら、他者を演じることで、異なる価値観との接触を疑似体験するのです。 先生方にとって演劇は唐突だというならば、教科の授業にフィクションの力を活かしてはどうでしょう。例えば、生徒が歴史の登場人物になりきって考えるような授業が広まっていますが、その際、例えば源義経と頼朝の役割を交換させるとか、第三者を加えることで会話がどう発展するか考えさせてみるのもいいのでは。 一般的なロールプレイも有効です。小・中学校ではよく、いじめる側といじめられる側を交互に演じる試みが行われています。ただし、「いじめられた子の気持ちになってごらん」と諭したところで効果は疑問。相手の気持ちがわかる子であれば、最初からいじめなどしていません。けれど、いじめる側にも、人から何かをされて嫌だった経験はあるわけで、そこから類推させ、「今の気持ちは、それと似たものなんだよ」と結びつけることが、ロールプレイの意義だと思います。 これと同じことを医学部の学生にはこう伝えてきました。患者さんの気持ちに同一化することは難しい。けれど、患者さんの痛みや苦しみを何らかの形で共有することはできるはず。私たちの中にも、それに近い痛みや苦しみがきっとあるはずだから、と。 こうした取組は教育学では「シンパシーからエンパシーへ」と呼ばれています。日本語訳が難しいのですが、相手に同一化したり、同情したりする必要はないけれど、なぜそう考え、行動するのか理解を示し、共有・共感の余地を残すという態度のことといえるでしょうか。冒頭に述べた、「心からわかりあえないこと」を前提に、少しでもわかりあえる部分を探っていくという営みも、こうした考えをベースにしています。 もちろん、そうした営みは一筋縄ではいきません。異なる価値観や文化的背景をもった人々との対話や共生は、大変だし面倒くさい。こうした認識をもつことも大事だと思っています。そこが欠けると、「多文化共生は素晴らしい」という単なる理想論や人権論で終わりかねません。講演などで多文化共生について話すと、よく「金子みすゞですね。『みんなちがって、みんないい』ですね」と言われますが、そうではない。「みんなちがって、大変だ」と言いたいのです。 だからといって大変さから目を背けるわけにはいかない。仮に、気の合う友人や、自分のことを愛してくれる人とだけで生きていけるのならば、それも幸せなのでしょう。けれど、人間の社会はそうはできていません。むしろ、これからは多様性が力。それぞれの価値観のすり合わせによって新しい価値を創造していかなくてはなりません。 他者との対話を避けるということは合意形成の機会を自ら放棄すること。逆に言えば、対話の術を身につけるということは、自分たちが暮らす地域社会の未来について、自分たち自身で考え、判断し、決定することができるということです。 私がしてきたことは漢方薬のようなもので、もどかしさも感じますが、そうしたことを各地で具現化する若者が増えつつあることに、手応えとともに、少しの喜びを感じています。それは「伝わらない」という経験からしか生じないと思うのです。 ならば、体験をさせるのが近道。さまざまな社会施設を訪れたり、ボランティアやインターンシップに参加したり、外国人と触れ合ったりなど、自分とは異なる他者との接触の機会を増やすことです。けれど、そのような豊かな体験活動は、予算や時間、セキュリティの問題が壁となるでしょう。個々の学校が置かれた状況によって体験格差も広がっています。「伝えたい」という気持ちは、「伝わらない」という経験からしか生じない「みんなちがって、大変」だけどそこから生まれる価値がある382021 MAY Vol.437

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