キャリアガイダンスVol.439
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から取り掛かる。「初めて一から自分で設計するので、どの木を使うのか、大きさ、丈夫さ、段取りなど考えることがたくさんありますし、自分がどこまでできるのか見極める必要もあります。1年間のなかで生徒は変化するので、美術では途中で描きたいものが変わったり、複数の作品を創る生徒も。生徒によって時期は違うのですが、やりたいことが見えたときにぐっと成長するように思います」と角南先生。 制作とともに取り組むのがポートフォリオ作り。なぜこの作品を創ったのか、どんな探究の過程を経たのか、写真入りでまとめたものは校内に加え札幌、旭川で行われる作品展でも展示。1月に行われる卒業制作発表では、作品のプレゼンテーションを行い、その後に交流会も設けている。対話が、作品と創作をした自分自身についての気づき、達成感をもたらすから「交流会が大事なんです」と佐々木教頭は言う。 家具、食器、おもちゃ、楽器や木彫、水彩、アクリル、色鉛筆画。多彩な卒業制作作品は、卒業後も1年間は校内で展示され後輩たちの目標となる。バラバラな他者の表現を認め、自分の人間性の表れた表現が認められる環境も、生徒の優しさや個性を育てる要素なのではないだろうか。 「先生たちが自分のやりたいことを信じてくれた。自由に創りたいものを創ることができた3年間でした」。卒業生の川﨑映(えい)さんは、高校時代をそう振り返る。札幌出身の川﨑さんは2010年に卒業後、大学で美術を学び、今は村営の砂澤ビッキ記念館で学芸員として働いている。高校の3年間、ボランティアとして通ったこの場所が好きで、求人を知って帰ってきたのだ。近年、川﨑さんのように村に戻ってくる卒業生が徐々に増えつつあり、村も支援を始めている。 一例がアーティストインレジデンス事業。村で創作するために宿舎と制作場所を提供するもので、参加した卒業生が後輩たちと交流する機会も設けた。また、昨年は音威子府駅の空きスペースを村民、高校生、卒業生の使えるギャラリーに改装した。仕掛け人である村地域振興室の横山貴志さんは「高校生は巣立っていくもの。残ってほしいと考えているわけではありません。でも、村が好きと言ってくれているのに何もしないのは寂しいですよね。教育に関しては全部先生方にお任せしてきましたが、もう少し村としてできることはないか模索しています」と言う。 同校が工芸科、村営移管に向けて舵を切ったのは昭和50年代。北海道で入学者20人以下が3年続いたら他校と統合していた時代に「廃校はコミュニティの崩壊につながる」と危機感を抱いた当時の校長、狩野 剛氏が動いたことから始まった。村の資源である木に注目し、付加価値を高める可能性のある工芸科目を導入。近くに一流の専門家が必要、と彫刻家の砂澤ビッキ氏に創作の場を用意し、村に招くこともした。 以来40年、厳しい時代も続いたが、村と二人三脚で学びの場を守り、今では全国から生徒が集まる学校になった。高校が村を動かし、村が高校を支えてきた音威子府。未来を創造するのは、一から何かを創る力をつけた高校生や卒業生かもしれない。高校は村の基幹卒業後も支援は続く1950年創立/工芸科/生徒数:110人(男子39人・女子71人) /進路状況(2020年度実績)大学11人・短大2人・専修16人・就職3人・その他2人(左から)佐々木雅治教頭、角南友繁先生(工芸科長)、横山貴志さん(音威子府村総務課地域振興室)川﨑 映さん(砂澤ビッキ記念館学芸員)■ 授業ふんだんに用意された木材や工具類、作業着も村から支給されたもの。工具箱は入学前の課題として各生徒が作る■ 音威子府村との関わり(上)駅舎のギャラリーでは生徒の企画展が開催され、村民との交流機会に(右)全生徒が参加する村民運動会。賞品の洗剤など日用品が生徒に喜ばれている■ 卒業制作(上)廊下や階段、至る所に生徒の作品が置かれており展示後は、生徒の自宅に送られる(左)成長の軌跡が綴られたポートフォリオ佐野雄亮さん(3年生)532021 OCT. Vol.439

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