には大勢います。私は今、そうした子たちきに一人で暮らしたフィリピンでの体験がたことは一度もありません。愛されたといはセブ島で暮らしました。語学学校で現地くっついてスラムで活動もしました。私は子んとなくしか理解できません。将来、格差ったあと24歳で大学に入学したんです。本語が不自由なことで人知れずつらい思いをしている、海外にルーツをもつ子どもが日本に日本語を教えるなどの教育支援事業を行っているのですが、そこには16歳のと大きく関係しています。小・中学校で、ひどいいじめを受けていた私は、高校でも居場所を見失っていました。そんなとき訪れたフィリピンのエネルギーに圧倒され、父の勧めもあり1年間農村の小さなコミュニティで一人暮らしをしたんです。日本を飛び出せることが嬉しく、不安はありませんでした。現地の人に何かとかまっていただき、嫌な思いをしうよりは、受け入れてくれたという感じ。それが心地よく、生きる力を取り戻すことができました。一旦は帰国するも、20歳のときに今度語を学び、アルバイトの傍らNGOの方々にどものころから疑問がわくタイプ。「なぜ貧しいのか」「わずかな稼ぎでどうやって暮らしているのか?」という疑問が次々と生じるものの、基本的な知識がないため、な問題や国際協力に関わるにしても、今の学歴では前に進めないと感じ、高卒資格を取大学では教員に質問しまくるなど、堰を切ったように知識を吸収し、「あれは、そういうことだったのか」という気づきの連続でした。しかもネットの知識と異なり、他者のフィルターを通し、多様な観点から話題が展開するため、世界が一気に広がりました。一般には、学校で知識を蓄えてから社会に出ることが多いですが、その逆があってもいいのではないか。少なくとも私には、それが合っていました。なので今、学校へ行くのがつらくても、その先にある「学び」まで否定しないでほしい。学ぶのは必ずしも今でなくていいと思うのです。在学中から、フィリピンの児童養護施 日 設を支援する活動をしていましたが、日本で暮らすフィリピンルーツの中学生との出会いが転機となりました。彼女は日本語が少ししかわからないのに、中学校での支援はないに等しく、学校から足が遠のいていました。私の場合、言葉がわからなくてもフィリピンで温かく迎えられたけれど、言葉がわからないが故に日本で寂しい思いをしている子が大勢いる。それがショックで今の教育支援事業を始めたんです。彼女のつらい気持ちを慮ることができたのは、やはり、16歳での体験があったからです。19フィリピンの中学校に通う16歳の田中さん(左)。英語も現地語も話せないなか、マニラから車で3時間の農村地帯の一軒家に滞在。クラスメイトが四六時中かまってくれたという。16歳でフィリピンへ。生きる気力を取り戻し、20歳で再訪するも、知識の必要性を感じ、帰国後大学に入学することに。大学での学びは気づきの連続。過去のリアルな経験や気になっていた疑問と、知識とがつながり世界が一気に広がった。その過程で海外ルーツの子どもが国内で置かれている境遇を知る。自分にできることは何か考え教育支援事業を開始。たなか・いき●1979年東京都生まれ。16歳で単身フィリピンに留学。20歳でセブ島に移住。帰国後、亜細亜大学国際関係学部卒業。フィリピンの児童養護施設を支援するNGO設立を経て、2010年より現職。海外にルーツをもつ子どもたちのための教育支援事業「YSCグローバル・スクール」を運営するほか、いじめ、貧困など若者が直面する課題について情報発信を行う。2022 OCT. Vol.444フィリピンでの体験がすべての始まり。感じた疑問を帰国後、知識と結びつける
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