ンがいらない方、いらない方へと進んでいるのも事実です。少子化や核家族化の影響で、日常的に語らう相手は限られますし、コンビニでも無言で精算できてしまう便利な世の中です。SNSにしても結局は自分と同じ意見や志向の人が集まりやすくなっています。学校で、探究やディスカッションの授業が増えているとはいえ、地方では、クラス替えのない20人1学級のまま小学校の6年間を過ごすことも普通で、無理に口に出さずとも、察しあえるコミュニティで育つことになるわけです。きなり「コミュニケーション能力がないと就職できませんよ」と言われ、戸惑いながらも就職すると、確かに、やれ異文化コミュニケーションだ、グローバルスタンダードだと追い立てられる。社会が求めるコミュニケーション能力が、どんどん高まっているのです。すべての小・中学校に演劇的手法を使ったコミュニケーション教育を導入していますが、豊岡の子どもたちが豊岡で一生仲良く暮らすのであれば、そうした教育は必要ないかもしれません。けれど、そうはいきません。高校、大学、社会と世界が広がるにつれ、好むと好まざるとにかかわらず他者と出会わざるを得なくなるから。その時に困らないよう、義務教育段階から最低限のコミュニケーション能力を育むことは絶対必要だと思います。一番いいのは実体験です。近年は小・中学校でも校外に出て、親や先生以外の大人(他者)と接する機会が増えていますが、先生方の労力やセキュリティの問題は無視できません。思わぬハラスメントに発展し、児童・生徒が心に傷を負うこともあるでしょう。そうしたリスクを避けようとすると今度は、「わかりあおう」「察しあおう」といった温室のようなコミュニケーション教育になりかねません。その点、演劇的手法の強みは、安心安全を確保しながら、フィクションの力を借りて、「伝わらない」「わかりあえない」という疑似体験を積み重ね、どうしたら少しでも通じあうことがでそうしたなかで大学に入学し、い豊岡市では本学もお手伝いして31きるか練習できることです。では、高等教育機関でコミュニケーション教育が必要なのはなぜか。繰り返しますが、今の学生は、ある種のコミュニケーション能力はあるとはいえ、似通った価値観のなかで発揮していることが多いわけです。そうした能力を、コンテキスト(文脈)のズレが生じやすいどのような場面でも、例えば外国の方とでも、年上の上司とでも、ジェンダーを超えてでも使えるようにするのが、高等教育機関におけるコミュニケーション教育の役割だと私は考えています。異文化との衝突といった均質性を打ち破る体験。演劇的手法による伝わらないという疑似体験。そしてコミュニケーションを個人の問題ではなく、デザインの問題として捉え直す視点。こうした学びこそ、就職活動などで測られがちな表層的なコミュニケーションスキルではなく、社会で真に必要とされる、他者理解を基盤としたコミュニケーションの力を育むことになるはず。それは、分断が進む現代社会において、異なる価値観や文化的な背景をもつ人たちと、完全にはわかりあえないかもしれないけれど、それでも、少しでも共有できる部分を見つけ、共存しようと努めるための、とても大切な力だと考えています。個人ではなくデザインの問題としてコミュニケーションを捉え直す 2026 JAN. Vol.45716「わかりあう」ことに重点が置かれていた出版当時(2012年)の日本のコミュニケーション教育を疑問視し、コミュニケーション能力とは何かを論じたベストセラー。講談社現代新書わかりあえないことから─コミュニケーション能力とは何か
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