カレッジマネジメント190号
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OECD(経済協力開発機構)の作成した統計によると、日本の公教育支出のGDPに対する比率は、加盟国中最も低いとされている。ちなみにここで「公教育支出」というのは、国や地方公共団体が教育の分野に投じた支出のことで、このほかに親が支出した経費があるが、これは「私教育支出」として区別されている。つまり簡単に言えば、日本はGDPの高さと比較して教育にかける公の費用が最も少ないことになる。この事実はかなり以前から知られており、様々な機関が利用してきた。しかしそれはしばしば「政府が経済には熱心だが、教育には熱心ではない」といった告発に結びつきがちだった。あるいは政府は企業減税には積極的だが、教育に対しては冷淡であるといった嘆き節に終わりがちだった。ところがこの本の著者の主張は違う。著者は説く。資金は天から降ってくるわけでもなければ、地から湧いてくるものでもない。納税者が負担しようという気にならなければ、公負担の教育費は増えない。それではなぜ日本の納税者は自分の子どもにはお金をかけるのに、公の教育費の増額には積極的ではないのか。こうした疑問に答えなければ答えたことにはならない。このように著者は次々に疑問を立て、最後には日本人は何を公と考え、何を私と考えるのか、というより基本的な疑問にまで遡ってゆく。もともとこうした公と私との区分けは相対的なもので、時代が変われば変わってくる。特に教育のような分野は、はじめから客観的な境界線があるわけではない。ある時期までは公とされてきたものが、ある時期からは私とみなされるようになったことが、よくある。そのことは医療費の場合にもあることで、どこまでが私費負担なのか、どこからが公的負担なのか、毎年のように改定されている。本書はいわばこうした公と私の関係をめぐる議論をレビューし、様々な立場、解釈を吟味した記録である。ただOECDの統計それ自身も、誰かが一度再吟味してみる必要があるのではないだろうか。それというのも、国際機関のまとめる統計は、えてして間違いとまで言わなくとも、ある種の歪みが入り込むことがあるからである。世界各国のデータを一つの共通した枠に納める過程では、しばしば解釈の食い違いが起こったりしがちである。 過去にあった事例だが、ひところ各国のODA(政府開発援助)のうち基礎的人間ニーズ(食糧・住居・衣服・飲料水・衛生環境・公共交通・教育など人間生活にとって最も基本的な必要条件)に対してどれだけ支援しているかを比較すると、日本のこの分野への支出が低く、日本は自国の経済活動に直結する分野(例えば道路・港湾・橋など)へは積極的に援助を投入するのに、人間生活の基礎に関わる分野に対しては不熱心といった国際的な批判がなされたことがあった。ところがこうした言説の根拠となる統計に疑問があるので、然るべきルートを通じて、この報告書を作成した国連開発計画(UNDP)に問い合わせたところ、「あのデータは国連開発計画本体が作ったものでなく、ある民間シンクタンクの作成したもの。このシンクタンクはすでに解散していて、いかなるデータを使ったかはもはや確認できない」という回答が返ってきたことがあった。こうした例が物語るように国際機関の作成したデータは、権威ある機関のデータとして頭から信用してしまうのではなく、一定の距離をもってみる必要がある。誰か吟味してもらいたい。中澤 渉 著『なぜ日本の公教育費は少ないのか─教育の公的役割を問いなおす』(2014年 勁草書房)公と私の関係性とは統計の国際比較の難しさ
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