カレッジマネジメント191号
2/62

 矢内原忠雄。この名前を知る人は、この現代ではほとんどいない。しかしこの名前が燦然と輝いていた時期があった。戦中にその言論活動が軍部に睨まれ、累が職場に及ぶことを避けるため、自ら一人東京帝国大学経済学部教授の職を辞して、節を貫いた人物。しかも無収入の身になっても、自力で民間の聖書研究会を組織し、時流に逆らって聖書講読を続けた無教会派のクリスチャン。しかしその運命は敗戦とともに逆転する。今や三顧の礼をもって東京大学に迎えられ、経済学部教授として復帰し、やがては東京大学総長に選出される。節を曲げることなく、信念を貫き、学界の頂点に上り詰めた人物。戦後初期の言論界で異例なほど、社会的注目を集めた言論人となった。敗戦直後の日本には、身辺のきれいな言論人はいなかった。多くが大なり小なり、後ろめたい汚点を抱えていた。そのなかで堂々と自らの潔癖さをもって世間に対峙できる言論人はごく少数だった。矢内原忠雄はその少数者の一人だった。私ごとになるが、昭和28年4月安田講堂で行われた入学式の際、はるか彼方から矢内原総長の姿を仰ぎ見たが、その姿は文字通り後光さすカリスマに思えた。時の権力に屈することなく、時流に迎合せず、自らの信念を貫き通した知識人。その言論活動は常に広く注目を集めた。だからこそ東京大学入学式、卒業式の際の総長訓示は、東京大学の内部だけに限られることなく、いつも活字となって社会全体に向かって発信された。人々はその発言のなかに、敗戦後の虚脱状態を乗り越えるきっかけをつかみとろうとした。それは決して一時の幻想ではなく、多くの日本人がその発言のなかに、生きる新たな目標を発見しようとした。しかし今にして思えば、なぜ矢内原は大学を辞さねばならなかったのか、いかなる経緯のなかで矢内原の辞任が起こったのか、それを解き明かそうというのが、本書の狙いである。考察は矢内原の思想の中身だけに限らず、当時の東京帝国大学の内部事情、軍部からの有言無言の弾圧、国家的な規模での思想統制機構の干渉、出版界を取り巻く環境まで及び、そのなかで大学人の言論活動の性格にまで及んでいる。日米開戦直前の1930年代の言論をめぐる力関係が、矢内原個人の健康問題を含めて吟味されている。軍部に睨まれた論文「国家の理想」を発表した当時、矢内原の健康状態は最低にあった。矢内原は世間一般には「強い人」というイメージが定着しているが、その家族が語るように、神経の細い寂しがり屋だったという。こうした一時的な健康状態ではあったにしても、矢内原の真骨頂は妥協を許さない「頑固さ」にあった。それを人は「信念の人」と言う。しかし家族、特に子供達にとって父忠雄は何よりもまず「怖い存在」だったという。多少なりとも矢内原忠雄個人を断片的に知る者にはその怖さがよく分かる。後年子息である矢内原伊作の「大きな山に向かいて」を読んだ時、偉大な父親を持った子供達は、こういう思いをもって父親をみるのかということを学んだ。この現代では「信念をまげない態度」も「思想に殉じる行動」も、あまり歓迎されず、評価されることはない。そういう思想様式、行動パターンが評価されることは少なくなった。今の時代では「妥協を知らない」とは「融通が利かない」と同義であろう。本書を読みながら、ある時代と、その中を生きた稀有な人物像の挽歌を聞く思いがした。もしそうだとしたら、この小文は挽歌の挽歌ということになるだろう。将基面 貴巳 著『言論抑圧─矢内原事件の構図』(2014年 中公新書)自らの信念を貫いた、稀有の言論人矢内原事件を多角的に解き明かす

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です