カレッジマネジメント192号
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15は、ほかの専門分野の科目やほかの学類が指定した科目を所定の数、履修することで、別の専門分野も修めたと大学から正式に認められる。以上に見られるように、学域学類制は、柔軟な学びを実現する仕組みとして理解できる。学生が自身の学習経験を基に、専門分野を絞り込んでいくことを可能とする。それにとどまらず、ほかの専門分野に関心を抱く学生には幅広く学習する機会を提供している。なお、教員の所属も同時に再編されている。教員は、基本的に、人間社会研究域、理工研究域、医薬保健研究域の三つの「研究域」に所属する。所属する研究域から学類(・研究科)に出向き、教育を提供するかたちを採っている。各教員は所属研究域と対応する学域内のいずれか一つの学類の専任教員となる。必要に応じて、別の学類にも準専任教員として教育を提供することができるようになっている。専門を変えようと考えた学生が6割の衝撃学域学類制への議論が始まった背景には、高等教育のユニバーサル化に伴う学生の変化があったという。「多様な学生が入ってくるようになってきていた。その中には、自分の将来を決めかねたまま入学してきて、入った後にミスマッチに気づく学生もいた。その割合がかなり増えてきていることに我々は危機感を抱いていた」と山崎学長は語った。このミスマッチは印象だけにとどまらず、数字にも表れていた。当時、金沢大学が全卒業生を対象に実施した実態調査では、過去に一度は専門を変えようと考えたことがある学生が6割を上回った。この数値は学内に衝撃をもって迎えられた。これが契機のひとつとなり、このようなミスマッチを解消し、 学生がスムーズにキャリア形成できるよう、大学としてどう貢献していくのか、それも全国の大学の先頭を切ってどう取り組んでいくかの議論が始まったと山崎学長は振り返る。学生達は、自分の専門分野を決めて入学しているものの、同時に迷いながら学生生活を送っている…。金沢大学が出した答えは、入学時に専門分野を決めずに、学生生活を送りながら決めていく、または、高校の頃に決めた専門分野を大学生活を送りながら確かめる仕組みがあっても良いのではないか、というものだった。ここに、間口を広く受け入れていこうという方向性が定められたのである。当時の林勇二郎元学長(在任1999-2008)と、8学部長の対話が始まった。間口を広く受け入れるには、既存の学部をそのままにしておくわけにはいかない。そのため、当初から賛成ばかりというわけではなかった。金沢大学のグランドデザインの検討は1999年から始まっている。その後、公表された『金沢大学の課題と取り組み―自己改革を目指して』には、「学問の進展、社会的要請の変化に応じて学部の組織に常に改革の目を向け、改変・再編を工夫する」ことが盛り込まれたが、これが公表されたのが2001年6月である。同年12月には『金沢大学の改革―教育研究のグランドデザイン』が評議会で承認される。即ち、学部を文系、自然系及び医学系の三つに再編し、教員組織と学生組織を分離する方向を検討することが認められた。同じく評議会で、再編・統合の方針が決定されたのが2003年である。2、3年にも及ぶ議論がなされたが、林元学長は絶対に諦めることがなかった。「『私が学長になった限りはもうこの流れを止めない』とおっしゃっていましたね」と、山崎学長は当時を振り返っている。ちょうど、同時期に出た、遠山プラン(2001年6月)の方向性と一致していたことも、林元学長の確信を強めたという。遠山敦子文部科学大臣が示した「大学(国立大学)の構造改革の方針」には、国立大学の再編・統合、民間的発想の経営手法の導入、第三者評価による競争原理がうたわれていた。学部学科を再編統合することは、広域入試につながり、学生が入学後に専門を選択する仕組みを実現する可能性が広がってくる。林元学長のビジョンと社会の動きが合っていたとしても、実現への過程は決して平坦ではなかった。大枠が決まった2004年頃以降も、学域学類への移行の具体的な作業は続く。当時、この作業を支えたのが、山崎現学長を含む4名の学長補佐や副学長、事務局に設置された改革推進室のメンバーである。組織改編のためのワーキンググループが立ち上がり、案作りを行うという補佐体制が調っていたことも見逃せない。改革の実現は、林元学長のリーダーシップに加えて、フォロワー達の奮闘にも支えられていたのである。最終的に、2008年度より、金沢大学は学域学類制に移行した。学内での議論が始まってから実現にこぎ着けるまでに、8リクルート カレッジマネジメント192 / May - Jun. 2015特集 変革のドライブとなる組織運営改革山崎光悦 学長
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