カレマネ
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61リクルート カレッジマネジメント193 / Jul. - Aug. 2015者には供給しないという排除性が働かない財)か「非競合性」(利用者が増えたとしても、財・サービスの追加的な供給や費用の増加も必要ない)という二つの性質の少なくとも一つを備えていなければならない。この定義に従うと、大学が提供する教育は公共財ではないと考えられるが、研究によって創出された知識は誰でも利用できるし、利用者が増えても追加的な供給や費用が生じないという点で、公共財と考えることもできる。ただ、新たな知識を特許等の形で権利化した場合をどう考えるかといった問題もある。このように、私的財と公共財の間のどこに大学を位置づけるかは、視点の置き方によって解釈に幅がある。その中で、経済学における「外部性」の概念を用いて、教育による効果は、教育を受けた者だけでなく、その周囲や社会全体に市場を経由することなく及ぶ、との主張が展開されている。それが「教育の外部効果」であり、大学に対する公的支援の根拠ともなっている。矢野(2013)は、「上司や同僚の知恵と知識に学びつつ、チームの生産性が向上する。あらゆる学習の成果は、人間関係やメディアを通して波及し、社会に共有財産化される。こうした外部効果の計測も非貨幣的便益も、ともに未開拓な領域だということを前提にして、計測された社会的収益率を解釈しなければならない」と主張する。このような形で学問上の理論や実証研究を紹介するのは、専門家だけにとどめるのではなく、政策担当者から大学の教育研究や経営に関わる者まで含めて、多面的な視点から議論を交わすことで、研究をさらに深化させ、応用可能なものに発展させる必要があると考えるからである。そのことを通して、実際の政策立案や大学運営を支える思考の枠組みが形成され、先に述べた客観データと合せることで、高等教育の費用負担に関する議論をより豊かなものとすることができるはずである。社会の中での自校の立ち位置をどう明確にするか大学を卒業することで個人の生涯所得が増加し、政府にとっても税収増をもたらし、定量的な計測は難しいが外部効果をもたらす。これまで述べてきたことの要約であるが、所得や税収の増加は、教育の結果なのか、それとも学卒者という形で学歴によるスクリーニングが行われた結果なのかという点については議論がある。学歴や学校歴と仕事の処理能力はあまり関係がなく、学卒と高卒を区分した人事管理、学校歴を意識した採用等が、結果として生涯所得差を生み出していると考える実務家も少なくないだろう。その意味で、大学教育が如何なる形で付加価値を生み出しているかが問われており、その点をさらに明らかにしていく必要がある。ここまで教育を中心に論じてきたが、研究についても、様々な答申・提言でイノベーション創出拠点としての大学に対する強い期待が示されている。上山(2010)は、「日本における大学論の課題は、どこかに存在するかもしれない架空の理想郷としての知識の共同体を念頭に置きながら、実際の大学の衰退や腐敗を嘆くことにとどまり、ますます拡大しつつある知的社会の中心としての大学を論じることができないでいることである」と指摘している。米国の研究大学の事例を踏まえての指摘だが、社会の中で自校の立ち位置をどう明確にするかは、費用負担問題を考える上で、不可欠な視点である。教育機会均等のための経済支援と教育の質向上のための私学助成は増加させるべきだが、それ以外の公的負担の増額は困難と思われる。我が国には「教育は親の責任」との教育観が根強いといわれているが、家計にこれ以上の費用負担を強いることも避けるべきだろう。企業や個人を含めて「教育は社会が支える」との意識を、時間をかけても広げていく必要がある。そのためにも大学を広く社会に開き、社会との間で人を交流させ、知識を循環させなければならない。その上で、企業や社会の資金をどう取り入れるか。その構想力、設計力、行動力が求められている。【参考文献】(本文中に文献名を掲載したものは除く)金子元久(2007)「高等教育財政の課題−質を支える財政へ」『IDE現代の高等教育』No.492)矢野眞和(2013)「費用負担のミステリー−不可解ないくつかの事柄」『大学とコスト−誰がどう支えるのか』岩波書店上山隆大(2010)『アカデミック・キャピタリズムを超えて』NTT出版
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