カレッジマネジメント198号
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59基づき、先に述べた職員の成長と大学の発展の相互作用のプロセスを辿りながら、大学職員のあるべき姿とそれを実現するための道筋や方法について考えてみたい。職員キャリアの早い時点での「一皮むけた経験」長野氏は、1973年3月に龍谷大学文学部仏教学科を卒業、同年4月に同大学の職員に採用され、経理課に配属される。文学、経済、経営、法学の文系4学部の時代であり、他の多くの大学と同様に、大学運営は教員が担い、職員の役割は補完的なものという伝統的な大学観が支配していた。最初の仕事は、学費収納係で、伝票処理などを全て手作業で教えられた通りの方法で行っていたが、先輩の一言で学校法人会計基準を基礎から学ぶ必要性を感じ、関係書籍を読み、短大協会の経理研修に参加し、会計基準の全容の理解に努めたという。その結果、予算決算業務に興味が湧き、上司に希望して関わらせてもらうようになる。そこで、関連規程の整備が不十分なことを知り、「予算統制要項」、「学費納入規程」、「事業目的分類科目」などの制定に取り組む。長野氏26歳、入職4年目で始めた「事業目的別予算書」は40年経った現在に至るまでほぼ同じ形で引き継がれている。当時の大学が組織的に未成熟だったからこそ若くして大きな仕事ができたのではないかと長野氏は振り返る。先輩の一言という小さなきっかけで、経理業務の基本を学び、仕事の面白さに気づくことで、自ら進んで困難な業務に挑み、結果的にいわゆる「一皮むける経験」をしたことになる。「長期計画」が職員の参画と大学の発展を促すその頃、龍谷大学では1975年から1986年を計画期間とする「12カ年計画」と名付けられた長期計画をスタートさせている。当時の大学では先進的ともいえる取り組みである。1970年代当時の私立大学では水増し入学が普通に行われ、龍谷大学でも1974年度時点で、収容定員4779人に対して学生数は11884人と、定員の約2.5倍の学生が在学していた。本計画は、マスプロ教育と言われたこの教学条件を改善すべく、毎年7%ずつ実員を減らし、12年間で学則定員に近づけることを目標としたが、途中で学則定員を増やしたこともあり、10年でほぼ達成し、11年目に当たる1985年度からは第2次長期計画に移行する。学生数の減少による学費収入減については、毎年7%の教育改善率に、物価上昇率(人事院勧告を適用)を加算した率に相当する学費を値上げすることで補っている。また、2分の1助成に向けて私学助成も毎年増額されていたことから、教育条件が改善されれば補助金も増えるとの見通しもあった。計画が実際にどう推移したか、1974年度から80年度までの6年間で見ると、学生数は定員の2.5倍から1.3倍まで圧縮され、教育条件の改善により補助金収入は3億円から10億円に増額され、学納金収入も倍増となり、収入増を原資として教学施設設備を充実させている。この計画を主導したのは、学長事務取扱の千葉乗隆氏(後に1983年4月から1989年3月まで学長)であり、大学を変えようとする学部長もいた。職員では企画課長だった原田弘宣氏が立案当初から深く関わった。同氏は1960年3月に龍谷大学大学院文学研究科真宗学専攻修士課程を修了した後、1961年9月に職員として入職、最後は総務局長まで務めている。大学院修了者としての学識と説得力で、教員中心の検討体制の中にも違和感なく入っていけた。経営や財政という概念自体が大学運営に定着していなかった時代において、原田氏は「財政施策や施設計画は教員が片手間でやれる仕事ではない。だからこそ職員の役割は重要」との考えを持ち、職員に求めるものも厳しかったという。そのことから、職員の能力向上施策に力を入れ、海外の大学を自分の目で見てくることを目的に、1979年から海外研修を実施、1995年までの16年間で8回、延べ68人の職員をアメリカに派遣している。また、年功序列が一般的だった時代に、優秀な人材の積極的な登用も行った。第2次中期計画における「88改革」と呼ばれるカリキュラム改革では、セメスター制、コース制、グレード制などの導入を行うが、1991年の設置基準の大綱化を先取りする形で、これらを実施できた背景には、海外研修を通した職員の学びがあるという。リクルート カレッジマネジメント198 / May - Jun. 2016
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