カレッジマネジメント199号
2/70

著者はメディア研究者として著名であるとともに、現在は東京大学の副学長の要職にある。国立大学法人に関係する政策に関しては、周囲から責任ある発言が期待される立場に置かれている。国の政策として「文系学部廃止」という政策が発信されれば、その真意を問い、その背景をただす立場にある。本書ではメディア研究者の立場から、いかにして「文系学部廃止論」が発信され、いかにそれが変形され、いかに流布されていったか、その過程を丹念に追跡している。まさにメディア研究者の本領というべきであろう。2015年6月8日に文部科学省は各国立大学法人の学長宛に「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」という通知を発した。この通知がやがて「文部科学省は文系学部を廃止しようとしている」というセンセーショナルな情報にエスカレートしたが、なぜそのような展開を辿ったのか、その過程と背景を丹念に追跡したのが、この本である。こうした言説に発展させたのは新聞各社であり、やがて文部科学省はそれは真意ではないと否定しなければならない立場に置かれた。新聞社のなかには「主に文学部や社会学部など人文社会系の学部と大学院について、社会に必要とされる人材が育てられていなければ、廃止や分野の転換を求めた」と、一歩立ち入った報道を発表する新聞社まで出現した。この新聞記事には「社会学部」という特定学部名が挙げられているが、国立大学法人のなかで「社会学部」を持っている大学は全国で一大学しか存在していない。著者に言わせれば、この記事を書いた記者は「こうした初歩的な事実を認識していない可能性が大きく、その確認もしないまま原稿を書いていることがうかがえます」と断じている。やがてこの情報は日本国内に留まらず海外にまで広がり、海外メディアのなかには「日本は高等教育を再検討。リベラル教育をカットし、産業界に役立つビジネスや職業訓練を強化する予定」といった報道をする著名メディアまで登場した。とかく日本の高等教育政策となると、商業主義、実用主義、職業主義というレッテルを張りつけようとするのは、1980年代のジャパン・ショック以来の海外メディアの決まり文句であるが、今回もそれと同じトーンの情報が流布されることとなった。こうなると国内の機関もこれを放置できず、日本学術会議の幹事会は「人文・社会科学のみをことさらに取り出して『組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換』を求めることには大きな疑問がある」という批判を発するまでになった。日本学術会議とは人文・社会・自然・医学の諸分野をカバーした団体で、そこからの発言は学術界からの代表的な発言と理解されるものである。このようにすでに数年前に出されていた文書が、2015年6月以降、急速に世間の注目を浴び、あたかも日本中の人文・社会学部が廃止に追い込まれるかのような騒ぎが発生した。もともと文系は役立たない、理系さえあれば残りは要らないという雰囲気は、今回だけのことではなく、また日本だけに限られたことではない。たしかに自然科学の知識は「進歩」するのが当たり前で、進歩するように「宿命付けられている」と言っても過言ではない。それに対して人間が人間について語る言説は「進歩」という尺度を超えている。近代社会は「進歩」を旗印に登場した特異な社会であり、「進歩する知識」に注目し、それだけに価値を求めてきた社会である。その過程のなかで人間がしばしば忘れるのは、「進歩するとは限らない人間自身についての認識」であり、人間の在り方に対する問いである。その事実をたえず思い起こし、問い続けなければ、我々はかなり悲劇的な将来を覚悟しなければなるまい。吉見俊哉 著『「文系学部廃止」の衝撃』(2016年 集英社新書)研究者視点で過程と背景を追跡進歩するとは限らない認識が存在する

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

page 2

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です