カレッジマネジメント200号
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17リクルート カレッジマネジメント200 / Sep. - Oct. 2016は、ともかく、たくさん学生に読ませ、書かせ、それをもとに議論することの繰り返しである。学生に大きな負荷を掛ける、まさにオックスフォードの良き伝統と信じられている教育実践である(表2参照)。 この教授学習法が現在にまで生き残っていることを改めて振り返ると、それはイギリス社会に根づいている個人主義(自立した個人=市民の相互承認によって社会が成り立っていると考える)の思想と分かちがたく結びついている。大量の文献を読ませることで共通の知識の基盤を提供したうえで、その知識を用いてそれぞれが独自にどのように考えるのか、批判的思考力を徹底して鍛える方法として、この贅沢な学習が現在でも維持されている。それは強制による主体(subject)づくりの学習である。また、別の見方をすれば個々のチューターによる極めて主観的(subjective)な教授法でもある。 論文形式で行われる最終試験の採点においても、採点者の主観的な判断が尊重される(ただし必ず複数の採点者がいて、しかも他大学の試験官のチェックを受けることで主観性への質が保証されると見なしている)。入学者選抜における面接でも主観的な判断が重視される。いずれも、相互に個人の主観(あるいは主体であること)をリスペクトし合うことが前提となっている。もちろん一定の厳しい選抜を経てフェロー(仲間)となった人びとの間での信頼ではある(オックスフォードでは教員をシニアフェロー、学生をジュニアフェローと呼ぶ)。 翻って講義中心の日本の大学の学習場面を見ると、そこでは公平さや客観性を求めるために、個々の学生の顔を見えにくくする学習が主流となる。入試もしかり、である。主観性を排することが公平とされ、受験生は受験番号と試験の得点によって記号化される。前述したように、入試改革での面接導入への危惧は、このような社会心理と関係しているのだろう。 日本の大学でも学生に批判的思考力を身につけさせることが重視され、その一環としてアクティブラーニングが奨励されるようになった。授業への学生の主体的な参加を促すことが、主体的な学習者を生み出す方法だと見なされている。そのための授業の工夫が教員にも求められている。 だが、講読文献や論文執筆等の点で学習への負荷が小さいままであれば、どんなに表面的には積極的に授業に参加する学生が増えても、そこで育成される思考力が深いものになるとは限らない。行動として目に見える一見主体的な学習への参加が、主体的な学習を生み出す保証はないのである。ましてや自立した個人の育成につながるとは限らない。特にこれまでのように、学生達に学習の負荷を大きく掛けないカリキュラムの構造(週に十何種類もの授業を履修!)を変えないままであれば、参加型学習のススメは表層的な活動主義に終わる可能性が高い。流行の協働学習のような試みも、個の自立より集団への同調・埋没を誘うだけになりかねない。おわりに この小論では、8年間の私のオックスフォードでの経験をもとに、そこから見えてくる日本の大学の問題点について考えてみた。オックスフォードとの比較が、日本の大学にとってすぐさま意味ある議論とは限らない。だが、あえて権威主義風の物言いをすれば、高みから見えてくる景色をバックに、自己像を捉え直すことにも多少の意味があるのではないか。オックスフォードも、前述の通り現代化に向けた改革の努力を怠らない。それが可能なのも、 「ワールドクラス」の大学としての自負と、それを維持するためにグローバルに資金や人材を集める努力を続けているからだろう。その矜持は大学への社会的信頼(鼻持ちならないことを認めつつ)と無関係であるはずがない。注1拙著『イギリスの大学・ニッポンの大学』(中公新書ラクレ、2012年)。注2拙著『スーパーグローバル大学のゆくえ : 外国人教員「等」の功罪』『アステイオン』(82)、2015年 38-52ページ 。週1回1時間、学生2、3人に先生1人、8週間毎回エッセイの課題が出る課題に答えるための課題図書が出る課題図書を読んで、毎回A4の用紙に10枚分くらいの論文を宿題として提出する試験問題も、チュートリアルで読んだ文献をもとに、論文の課題に似た問題が出る表2 チュートリアルシステムの基本号記念特集

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