カレッジマネジメント203号
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2015年夏、ドイツのメルケル首相は岐路に立たされた。多数のシリア難民がドイツ目指して北上しつつあった。既に地中海沿岸では、あふれるばかりの人々を乗せ、転覆寸前になったゴムボートが多数漂着しつつあった。人々を驚かせたには、これら難民が漂着すると、それまで命の綱としてきたゴムボートを直ちに切り裂くという行為だった。これらのゴムボートが彼等を送り返す手段として再利用されることを防ぐためであった。さらには満員のボートから転落したのか幼児の水死体が海岸に漂着し、世界の人々は改めてその悲劇性に強い衝撃を受けた。彼等難民にとってドイツは難民受け入れに寛容な国として、ほとんど聖地化されていた。ドイツにたどり着けさえすれば苦難から解放される、それはあたかも現代のカナンの土地の様相を呈していた。周知のように、ドイツは憲法で、政治的迫害を受けた難民を保護する義務を国家の義務として規定している。この稀有な規定がある理由は、いうまでもなく第二次世界大戦中のナチスが犯した民族浄化政策に対する贖罪であった。ナチスの政策に対する歴史的贖罪をドイツは、その憲法の中に書き込んだ。第二次世界大戦後の日本国憲法が、戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認を規定したのと同じ歴史的価値を持っていた。押し寄せる難民の群れを前に、メルケル首相は窮地に立たされた。ドイツ国民もまた重い選択の前に立たされた。一方、ドイツ国内を見れば、一般庶民の間には難民の受け入れムードがあったわけではない。むしろ各種の極右団体の族生にみられるように、これ以上の難民受け入れを忌避するムードが膨らみ始めていた。「もう一つのドイツ」(AfD)、「ヨーロッパのイスラム化に反対する愛国者連合」(PEGIDA)のような結社が既に目立ち始めていた。問題はこうした深層心理がまず姿を露呈する場が、教室内であったということである。子どもは無残なほど正直である。普段親達が密かに語る正直な感情が教室内ではオブラートに包まれることなく露骨に語られる。親達が何気なく発した言葉が生のまま教室内で発せられる。親達は市民生活では語ることをはばかる言葉が、子ども達の口から生のまま発せられる。社会のなかで最も先鋭な形で人種偏見が姿を見せるのは、おそらく教室の中であろう。たとえ連邦議会の議場では、様々な政治勢力間の政治的議論が展開されるが、それはあくまでも装われた議論で、民衆が体内に抱えている生の声ではない。民衆の生の声が発せられるのは、市民同士の対話集会ではなく、井戸端会議でもなく、子ども達が集まる教室の中である。教室の中で子ども達が発する言葉が、その社会のなかで最も純粋な生の声だという可能性がある。子どもの声はまさに天使の声で、大人達が語る普段の言葉では覆い隠されているむき出しの感情が語られる。大人達がかろうじて理性で覆い隠している深層心理が、子ども達の口を通じてストレートに表出される。もはや1950年代、60年代のような奇跡の経済復興の時代、極度の労働力不足の時代ではなかった。次第に労働力の過剰と失業率の上昇が見え始めていた。これ以上の移民・難民の受け入れを忌避、もしくは拒否する深層心理があらわになり始めていた。その潜在的な心理がまず姿を露呈したのが教室内であった。天使であり悪魔でもある子ども達が発する言葉は、図らずもあからさまな民衆の深層心理を物語っていた。人は人種間の調和、世界市民を語るが、その基盤の上に成り立った学校を人類は未だ持てていない。佐藤学・秋田貴代美・志水宏吉・小玉重夫・北村友人 編集委員『グローバル時代の市民形成』(2016年 岩波書店)難民の聖地と受け入れ側の苦悩世界の縮図となる子どもの言葉

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