カレッジマネジメント206号
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これは博士論文である。博士論文とは高度に専門化された議論が展開される場である。それにあえて目を通そうと思う人は、ごく限られている。この雑誌の読者の多くは、失礼ながらむしろ避けて通りたいと思っていることだろう。それにもかかわらず、なぜここに取り上げたのか。博士論文のなかで大事な部分は、自分の研究の対象や方法論が、これまでの研究水準をどれだけ超えているかを主張した部分である。言い換えれば、既存の研究が取り上げてこなかった分野にどれほど食い込んでいるのかを説明した部分である。そこには自分がなぜ高等教育を研究対象に選んだのか、様々あるテーマの中からなぜそのテーマを選んだのか、若い研究者なりの思いが述べられている。さらには若い世代が、上の世代のこれまでの研究を、どう評価しているのか、その要点がはからずも表明されている。今から30年も前を眺めると、高等教育を研究対象に選ぼうなどと考える者はほとんどいなかった。だいたい高等教育を研究対象に選んでも、就職先がないのが普通だった。ところが20世紀末には日本高等教育学会が立ち上がり、はじめは300人程度だった会員数もいつのまにか千数百人を超える規模に達した。それと並んで大学教育学会もあり、そこには同規模程度の会員がいる。両方の学会とも毎年年次大会を開催し、多数の研究報告が行われている。これだけの学会員がいるということは、それだけのポストが用意されていることである。このように、にわかに拡大したこの領域は、社会のどの分野から、何を期待され、いかに役立てられているのか、今はそういう問いが立てられる。本書著者の世代から見ると、まず一つ上の世代は、各大学の沿革史の編纂が進んだことで、利用できる資料がいちだんと豊富になるという幸運に見舞われた。その結果、場合によっては、数編の沿革史を傍らに置くだけで、たちまち新たな論文を製造できるようになった。この業界を牽引してきた大家にとっても同様で、これら発表される沿革史をもとに、これまでとは異なった通史をものすることが可能となった。しかしその通史とは文字通りの「総花的な通史」で、次の世代に対して、問うべき疑問を投じるものではなくなっている。その結果希薄化したのは、なぜ、何を求めて、そういう研究をするかという基本的な問いである。ひと頃、哲学者が「大学の本質」という問いを立てて、様々な議論を展開した時代があった。しかし今やこうした問いを立てる人はいなくなった。こうした問いが意味をなさなくなったからである。いまや大学は一様なものではなく、各種各様なものとして存在しており、一つひとつを取り巻く状況は異なり、それぞれがそれぞれなりの答えを出さなければならなくなった。つまり「大学の本質」といった一般的な問いは無用となった。大学を取り巻く環境は個別化され、それに対する解答もまた個別化されることとなった。それをこそ問わねばならない、そういう基本的な問いが見えなくなった。この現象を次の世代は「問いの空洞化」と形容している。学問にも寿命がある。もはや有効な問いを発することのできなくなった分野は消滅するしかない。高等教育研究とはいかなる基本的な問いに応えることを求められているのか、それが課題となりつつある。戸村 理 著『戦前期早稲田・慶應の経営』(2017年 ミネルヴァ書房)過去研究への評価と、思いの主張変化を求められる学問としての問い

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