カレッジマネジメント208号
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東大教授からオックスフォード大学教授への転身を果たした苅谷剛彦教授についての紹介は不要であろう。本書はまさに日本の大学に向かって発せられた苅谷教授の「警鐘」である。いや日本の大学だけでなく、日本社会全体に向かって発せられた警告である。ひところ「スーパーグローバル大学」という用語が流行した。2014年に教育再生実行会議は37の大学を選び出し、大学教育のさらなる国際化を目指すとする政策を提案した。この会議の提言によると、今後10年間で世界の大学ランキング100位以内に入る大学を、将来10校まで伸ばすというものである。ちなみに世界で100位以内に入る大学は日本では現在わずかに2校に過ぎない。この低調ぶりを克服するために10校という目標値を掲げ、それらの大学に集中的に資金を投入することを明らかにした。こうした政府の意向が公表されると、多くの大学がこの「スーパーグローバル大学」を目指して名乗りをあげた。我こそ「スーパーグローバル大学」にふさわしい大学だと一斉に声をあげた。ところが苅谷氏によると、この「スーパーグローバル大学」という用語は全くの和製英語で、英語としては通用しないという。世界各地から留学生を引き付けているような大学は、既にグローバル大学と呼ばれており、それで十分意味は通じるという。それを超えた大学となると、地球の外にでも飛んで行かなければならなくなると、苅谷教授はきつい皮肉を飛ばしている。そこで現在では「スーパーグローバル大学」という呼び名ではなく、「トップグローバル大学」という用語に改められたという。こうした挿話が物語るように、最近日本の大学関係者の間では「グローバル化」が、一種の魔法の用語となっている。我々は「グローバル化」に乗り遅れている、いやいや我が大学は既に「グローバル化」の最先端を走っている、などなど様々な話が交わされる。ところで「グローバル化」とは何か。具体的にどのような指標で測定できるのか。話が具体化すると声高にしゃべる人々の声の調子も低くなる。まさに「グローバル化」とは何か。海外の大学に行ってまず目立つのは、キャンパスが皮膚の色、髪の毛の色の異なる学生、教員が多数交じっている点だ。しゃべっている言葉にしても、同じ英語でもそれぞれお国なまりの英語がふんだんにあふれている。講義室に行っても明らかに英語が母国語ではない教師がお国なまり丸出しの英語を使って講義している。大勢が一堂に会する会議に出てみると様々なアクセントの英語が聞こえてくる。こうした光景がふんだんに見られるのが世界の状態である。なぜ日本の大学が、そして日本社会一般がこうした「グローバル化」から孤立しているのか、なぜ日本だけがガラパゴス諸島のように孤立し、独立した世界を作っているのか。日本語という特殊な言語の壁は、すでに言い古された決まり文句であるが、それだけとは考えられない。ここで苅谷教授は日本社会の内部に組み込まれた独特なエネルギーの浪費を取り上げる。その浪費とは何か。日本は高い能力を備え優れた人材を多く抱えながら、日本社会内部での相互のわずかな格差を維持し、固定化することに消費されてしまい、外側に向けての生産に使われることはないという。言い換えれば20歳代前半までに刻印づけられる偏差値序列の中で、上位の者はこれで安心とばかり眠り込み、下位の者は闘争心を失い、これまた眠り込んでしまう。これではいくら大学、大学院を拡大させても、相互の格差維持に使われ、国力の向上にはつながらないと苅谷教授は批判する。一度立ち止まって考える必要がある。苅谷剛彦 著『オックスフォードからの警鐘』(2017年 中公新書ラクレ)具体化しない「グローバル化」指標格差に固執し続ける限り、生産性は向上しない

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