カレッジマネジメント231号
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37リクルート カレッジマネジメント231 │ Jan. - Mar. 2022口は狭き門です。また、卒業までの期間も、通学制の大学では4年の在学年限内の卒業が9割を超えるのに対し、通信制大学では標準年限内の卒業が4割程度にとどまります。この入口管理と出口管理はセットで考えるべきもので、切り離すことができません。通信制大学は、入口の門戸が広く簡単に入れるからこそ、教育のクオリティを維持するために、必然的に出口は厳しくせざるを得ないのです。ひるがえって一般の通学制の大学はどうかというと、「入試」という厳密な入口管理があるのに対し、出口管理は実質的に不在に近い状態です。社会の関心も「入試」に集まり、入学後の「教育の中身」はさほど注目されず、評価もあまりされていません。入るまでは大変だけれども、入ってからは学生が勉強しなくなる、といわれるゆえんです。ですので、現状の通学制の大学が、多様な学生を迎え入れようとして入口のハードルだけを低くすれば、必ず教育の質の劣化が起こります。世間からは「大学なんて意味がない」とますます見られるようになり、多様性の実現どころか、かえって多くの人が離れていきかねません。つまり、通信制大学のあり方から学び、学生の多様性の実現を目指すというのであれば、入口管理と出口管理を表裏一体で考えることが不可欠なのです。――具体的には何を意識して、どんなことに取り組めばよいでしょうか。その点を考えていくための前提として、ご質問にあった「なぜ学生の多様性が重要なのか」という点にお答えすることから話を進めさせてください。根本的なことから言えば、それが大学の原点だからです。異なる価値を持った者達が、越境的に旅をするなかで、ある期間集まり、共同的な場を形成し、学問的な営みを行う。大学とは本来そういうものです。大学の出発点は、中世ヨーロッパにおいて、旅する教師と、旅する学徒が都市に集まり、たまり場を形成したことにあります。その場には、国や出身地も違えば、言語も違う、世代も職業も階層も違う、色々な人々が集まり、ラテン語を公用語として学び合っていました。そうした多様な人々が大学に求める「学び」というのは、中世や近代においても、あるいは現代や未来においても変わらず、基本的には2つあります。1つは達成すべき「専門知」です。技術的な目的がはっきりしていることについて、その目的を達成するのに優れた手段や方法論を学びます。例をあげれば工学や医学、法学や経営学、農学です。もう1つが「リベラルアーツ」です。専門知はある目的を成すのに役立ちますが、われわれが実現したい目的は歴史のなかで変化するものであり、目的がシフトすると、今までの専門知だけでは太刀打ちできなくなります。従って、社会のあり方や目的そのものを自ら作り変えたり、作り直したりして、「新しい価値」や「新しい知」を創造することが重要になります。そのためには、異文化や異なる階層、過去の社会等にふれて、「われわれが当たり前だと思っていることが違う世界ではそうではないことを理解し、自分を根本から疑い、組み立て直す」ことをしなければなりません。そしてその営みのためには、自ら今、立っている場所の当り前さ、自明性を疑いながら、文献を読んだり、他者と議論したりすることが欠かせなくなります。自分のなかで当たり前化していること、いわゆる自明性を疑い、現在あるものを壊し、価値を創造していく。それがリベラルアーツであり、大学の根本の学びなのです。ですので、しばし誤解されるのですが、社会人が大学に入り直すことの一番の意義は、新たな専門知や技能を身に多様性が「思考の殻」を壊し、新しい知を生む海外の事情を補足したい。吉見氏の著書『「文系学部廃止」の衝撃』(集英社新書)で触れられているが、日本や中国、韓国といった東アジアの大学は基本的に入口管理で、「入試の壁が非常に高く、強固」。一方、欧米の大学は基本的に出口管理で、上位大学は「入学では多様な学生を受け入れ、その後、各科目の成績や卒業は厳正に管理」するという。もちろん志望者が多い以上、欧米の上位大学でも入学できる学生は限られるわけだが、日本の大学のように画一的な試験で点数を取れた者だけが入学できるのではなく、基本的にはAO方式、筆記試験は行わず、これまでの成績や実績、推薦状、統一テスト等を基準に選抜される。世界の大学の入口管理と出口管理C O L U M N通信制大学は、なぜ学生の多様性が実現できるのか?第2特集

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