カレッジマネジメント209号
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6リクルート カレッジマネジメント209 / Mar. - Apr. 2018いったい何をやっているのか、説明責任が問われるのは当たり前だ。「学修成果の可視化」が社会から突然要請されたわけではない理由はここにある。もう何をやっているのか理解できないだけではなく、そのまま放っておくこともできなくなってきたのだ。その重要性は変わらないのだが、「学修成果の可視化」が、それほどテクニカルな話ではないと考える理由がここにある。もっと本質的で大きな話なのだ。2004年に認証評価制度が導入されて以来、私達は様々な「対応」を行ってきた。認証評価制度第1期には自己点検評価が導入されたが、多くの大学は点検項目に対応するチェックリスト方式の法令遵守体制を構築して見事に(!)乗り切った。認証評価制度第2期にはそれを反省して、情報公開とエビデンスに基づく活動の義務化が求められたが、チェックリスト方式の法令遵守体制を再構築し再度見事に(!!)乗り切っているところである。こうした場当たり的な評価対応は現場を評価活動の本質から遠ざけてしまい、評価制度を形骸化させるだけである。また一方で評価活動に真面目に取り組みすぎるあまり、評価活動自体が自己目的化してしまい、経営計画とは異なる評価サイクルを自前で構築して評価用の完璧な帳票制度を確立するようなケースも見られる。評価の取り組みそれ自体としては良いのかもしれないが、これでは現場は疲弊してしまい、大学全体の質保証にとっては逆効果である。バランスが重要だ。FD、SD、IR……。既視感を感じるのは私だけではあるまい。IRは単にツールであり、手段のひとつに過ぎないのに、「IRすること」が目的になってしまうような短絡的な思考に陥り目的自体を見失う。我々大学人はまたしても目的と手段を混同するのである。こうした大学人の内輪受けしかしない「改善」が社会から理解されないという繰り返しがまた起きている。難しいことをやることではなくて、社会に理解されるような「質の向上」と「質の保証」に取り組む必要がある。単純な話、もともと大学は学生たちや教授陣が学問に勤しむ場であって、コンピテンシーを第一義にして構築された組織でもなければ経験もないということは忘れてはならない。本来学生にとって最も大きな学修成果は専門分野で身につけた知見ではないのか。それを証明するものはディプロマ・ポリシー以前に学位であるはずだし、ディプロマ・サプリメント以前に成績表のはずだ。社会からの信用に足る学位であり成績こそ、大学が真っ先に目指すべき学修成果の可視化だ。まずは自らの学位や成績を実質化させるにはどうしたらいいか、そこから頭を振り絞るべきだ。実際、学修成果の可視化は目的に向かうための手段のひとつであって、その目的のひとつは「大学が何をやっているのか=学生は大学で何をしているのか」を示すことであり、「大学の教育の成果=学生の学修の成果」を示すことだ。究極的には「大学の存在価値」につながってくるものである。シラバスの実質化や授業改善の文脈で成績評価へのルーブリックの積極的利用を話し合っていた際、「ルーブリックを授業で使ったら学生の成績のインフレが起きてしまうけど良いのか?」と真顔で聞いてきた先生がいて心底驚いた経験がある。学生が成績を上げるためにルーブリックに対応してしまうからだそうだが、学生が一所懸命準備して何が悪いのか。学生が授業準備をすることよりも、試験の点数を低く抑えることを優先してしまっている教員心理が現れている。成績の厳格化とは単に成績を低くつけることではない。また点数が問題だというならば、それはルーブリックや評価基準そのものの修正が必要なのであって、学生が学習行動の一環として対応したことには全く非はない。それどころか、むしろそうした事前学習や時間外学習は奨励されることであって非難場当たり的対応、評価対応現状の整理繰り返す歴史授業における学習ないものねだり

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