グローバル・リベラルアーツ
学部の
先生に質問!
世界の課題を
どう解決するのか?

QUESTION 01
「正義」が対立した時は
どうすればいいの?

ANSWER!
「正義」を人間の
行動原理にすべきではない
吉田 京子先生
唯一神信仰において「正義」は基本的に「神の視点」を念頭に置いたものです。例えば、イスラームには神の公正(正義)という考え方があります。神は人間に対して能力以上のことを課さないし、最後の審判においても不当な判決は下さないという考え方です。「正義」とは人間の行いを神はすべて公正に等しく見て判断し、それに対し正当に応報するということです。一方、人間社会ではさまざまな「正義」が対立し、紛争の原因になってきました。一神教世界では、「神の正義」の名の下に十字軍や聖戦(ジハード)などが起きましたが、これらの歴史を見れば、「神の正義」を背景とした人間の行動を撤回したり妥協させたり、軌道修正することが非常に難しいことがわかります。私としては「正義」が神の原理であり、応報は神の手に任されているのであれば、人間社会で「正義」を行動原理にするべきではないと考えます。
公正・公平な第三者に判断を
ゆだね、話し合いで解決する
高橋 麻奈先生
個々の社会が多様であるように、人々の価値観・信条・文化等によって、その人が何を「正義」であると考えるかは異なります。そのため、「正義」が対立することはよくあります。だからといって、ケンカや戦争をして、暴力的に「どちらの正義が正しいか」の白黒をつけることは望ましくありません。そのようなときは、当事者それぞれが納得のいく形で、かつ平和的に対立(紛争)を解消できるようにすることが重要です。具体的には、裁判所や調停・仲裁など、公的な第三者機関によって公平に物事を判断したり、話し合いの場を持つようなシステムが存在していることです。このような紛争解決は、各国の司法制度だけではなく、国連や国際司法裁判所・国際刑事裁判所などが担っています。もちろん、公的な司法制度(裁判所など)や法律の専門家以外にも、当事者が信頼できる第三者に判断をゆだねることもできます。世界には、教会の牧師など宗教のリーダーや、村長やコミュニティリーダーなどが、人々の対立を解消する役割を担っている社会もたくさんあります。すべての人々にとって、公正・公平で、かつ信頼できる紛争解決の仕組みが整えられていることは、多くの人々の正義と人権を守るためには不可欠な要素です。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
で起こったこと
鈴木 健太先生
「どうすればいいの?」に多少なりとも近づけるよう、1990年代にバルカン半島で起こったことを述べます。ボスニア・ヘルツェゴヴィナという3つの民族が住む国がありまして、そこで当時、国家の独立をめぐって、民族間の対立が生じました。どの民族も各々の「正義」を掲げ、ある民族は独立に賛成、別の民族は反対します。話し合いは平行線。互いに疑心暗鬼、不安も高まり、武器をとりました。戦争は長期化し、市民が多数犠牲になりました。欧米諸国や国連は介入に乗り出し、交渉を重ね、やっとのことで和平合意にこぎつけました。ただその和平は、戦闘の終結を優先し、民族間の分断を固定化するものでした。30年ほど経った今も、それぞれの民族は自らの「正義」を振りかざしています。この間、和解に向けて、国際社会によるさまざまな取り組みや支援が行われましたが、なかなかうまくはいっていません。それぞれが自分の「正義」を生きるなか、再びの戦争だけは起こっていないのは、せめてもの救いでしょうか。いや、そもそもあの時、戦争になることだけでも避けていれば―――そう考えるのは僕だけではないと思います。最近、戦争を知らない若い世代の間には、こうした状況に辟易し、個々の民族の「正義」を超えようとする動きもちらほら出ています。「正義」の対立を乗り越えられるかどうか。最終的には、当事者たちにかかっているようにも思います。
QUESTION 02
SNSは多文化理解を
広げているの?

ANSWER!
タグ付けされた「文化」ではなく、
生きられる「文化」
そのものを見つめよう
植田 かおり先生
一生かけても行くことが叶わない数々の場所、会うことができない数の人々に、SNSは出会うことを可能にしてくれます。なるほど「多」文化との出会いがあると言えそうですが、そこで出会う文化は、発信者の言葉や画像として伝えられる文化です。つまり発信者の頭の中のフィルターを通した文化のカタログを眺めているわけです。これとは対極的な文化との出会いを考えてみましょう。例えば知らない土地でSNSの情報に頼らずに暮らしてみます。誰かがつけたハッシュタグはありません。見知らぬもの、手持ちの言葉でとらえるのが難しいものと「不意の」出会いの連続です。さまざまなものと一からの出会いを繰り返す中で、その場所で生きるとはどういうことかや、その生がもつ過去(歴史)の厚みへの予感が、自分の身体と心を通じて、じわじわと感じられてくるでしょう。「多」文化理解には遠回りの道かもしれませんが、文化は生きられるものなので、簡単には理解できない部分も含めた具体的な生との出会いが、文化を理解するためには必要ではないでしょうか。
情報を知ることと、
理解することはイコールではない
上野 太祐先生
まず、《わたし》はこれまで何かを「理解」できたことなどあったのかと振り返ってみたいと思います——そもそも「理解する」とは、何がどうなることでしょうか。何がどうなれば、「理解」が行き届いたと言えるでしょうか。ある地域の暮らしや風習、常識や通念を情報として知ることは、「理解」の第一歩ではありますね。しかし、私たちが素朴に「文化への理解が必要だ」と感じるときの「理解」は、はたして情報として知るだけのことで満足なのでしょうか。SNSはたしかに、多くの情報を瞬時に共有できるテクノロジーではあります。しかし、私たちが素朴に思い描いている「理解」とはどのようなことであるのか、ということがあらためて見つめ直されなければ、SNSがほんとうの意味での「多文化理解」に貢献することは難しいかもしれません。《わたし》のこの切り返しをうけて、これを読まれた《あなた》は、どうお答えになりますか。学びの入口へようこそ。
QUESTION 03
移民・難民はなぜ
受け入れられないの?

ANSWER!
多様な人々の流入によって、
社会全体が変化するから
河越 真帆先生
もともとその地に住んでいる人からすると、移民と難民は他の国や地域からやってくる外部の人です。移民には、合法的に移住する労働者や、不法に入国した移民もいれば、学修目的の留学生なども含まれます。一方難民は、さまざまな理由により自国で迫害を受けるおそれがあるために保護を必要とする人々を指します。このように多様な人々が外部から来ることによって、それまでの同質的な社会が変わることに抵抗を感じる人が出てきます。例えば、移民と難民を惹きつけるプル要因(人の移動を生み出す要因の一つ)を持つ欧州では多くの外国籍の人々を受け入れた結果、包摂と排除という相反する2つの傾向が見られるようになりました。排除の傾向がある人々は、移民は不要とする極端な政策を打ち出す政党を支持していて、社会の分断に拍車がかかっています。このような政治問題化する例が見られるように、移民と難民の受け入れは難しくなっています。
他者をどう受け入れるのか
鈴木 健太先生
そもそも、この問いは、なぜ「受け入れられない」ことを想定しているのでしょうか。社会は、自己以外の他者を受け入れることで成立します。にもかかわらず、受け入れない選択というのはどういうことなのでしょうか。そしてその際になぜ「移民・難民」と名指すのでしょう。現代の世界では、国民国家という言葉もあるように、国民という帰属に基づく国家体制が敷かれ、国民に属さない人は外国人、外からやってくるそうした人は「移民・難民」と呼ばれます。しかし、学問的に見れば、「国民」に何か実体があるわけではありません。単なる虚構であり、思い込みに過ぎません。家族・親族・知人でもなければ、他者にちがいはないでしょう。自分と同じ国民かそうでないか、あたかも当然のように無意識に区分しているだけです。数百年さかのぼれば、あなたの祖先だって、「移民・難民」だったかもしれません。人間ですので、「合う・合わない」「好き・嫌い」はあるでしょう。それでも一緒の空間に住むことはできましょう。それが「受け入れられない」だなんて――あまりにも非寛容的ではないでしょうか。
QUESTION 04
支援や国際協力は、
本当に相手のために
なっているの?

ANSWER!
情けは人のためならず。
「支援」ではなく「当然の行為」
吉田 京子先生
キリスト教やイスラームの教義では、「支援」や「助け」は必ずしも相手のためにするものではありません。キリスト者やムスリムにとって、支援は信者としての「義務」の一つだからです。イスラームでは、貧しい人は富める者に対し「求める権利」を持つとさえ考えられています。富や権力は個人の努力だけで得られるのではなく、神から与えられた能力や環境によって偶然に分け与えられたと理解されています。また、貧困も本人の責任というよりたまたまそのような巡り合わせに過ぎないと考えられます。富める者が貧しい者と富や財を分かち合うことでバランスをとることは、神の目から見て善い行いとなるのです。言い換えれば、支援は受け取る側にとっては「神の恵み」であり、与える側にとっては「善行」なのです。こう聞くとやや偽善的に感じるかもしれませんが、キリスト教やイスラーム社会における実際の支援や援助は、この宗教的感覚の延長で行われている部分があると言えます。「相手にとってはどうか?」ということより、支援は信者にとって「当たり前の行為」であり、「信者としての生き方の一環」と受けとめられることが多いのです。
相手を知り、ニーズに寄り添った
支援であれば役に立つ
高橋 麻奈先生
グローバル・サウス(発展途上国)の経済・社会の発展をする支援として、現在は国際機関・民間・NGO(市民社会)などが様々な国際協力を行っていますが、その中でも各国政府が担っているものは「政府開発援助(ODA:Official Development Assistance)」と呼ばれます。ODAとは、日本の外務省によると「開発途上地域の開発を主たる目的とする政府及び政府関係機関による国際協力活動」と定義されていて、日本も世界の様々な国に資金や技術協力で支援を行っています。つまり、ODAとは公的資金が使われているため、与える側(ドナー)にとっての「外交戦略」でもあるわけです。では、このような「外交戦略」としての支援は、受け取る側(レシピエント)のためになるのでしょうか?それは、まさにドナーの「腕」にかかっています。ドナーが、レシピエント側の社会や人々のことを思い、「社会がどのような状態で、人々が何を必要としているのか」を正しく理解したうえで支援を行えば、それは十分に相手のためになります。一方で、ドナーが相手のことを考えず、自分の「やりたいことだけをする・あげたいものだけをあげる」ような支援であれば、当然相手のためにはなりえません。そのため、相手のためになるよい「支援をする」ためには、技術と知識が必要なのです。
「助けてあげる」ではなく、
「共に生きる」という発想を
田中 李歩先生
支援は本当に必要な人の役に立っているのか、という問いだとしてお答えするとすれば、「社会的弱者」とされる人びとへの行政等からの支援は、制度があっても必要な人に届かないことがあると指摘されています。制度に関する情報にアクセスできない人や、あるいは制度は知っていても「怠け者」のようなレッテルを貼られ批判に晒されることへの恐れから、制度に手をのばせない人もいるのです。そういう社会のあり方から変えていかないと、支援は必要な人のためにならないことも多くなってしまうのかもしれませんね。他方、別の観点からは、こんなことも考えました:弱い人、困っている人を助ける、という発想・行動原理自体は否定されるものではありませんが、「助けてあげているんだから」と支援をする側の正しさを押しつけてしまうことになる(パターナリズムに陥る)と、相手の主体性が顧みられなくなり、真に必要・重要な支援は何なのかがわからなくなってしまう危険性があります。また、「相手のため」という原理だけで行う支援は、自分や自分たちの社会に余裕がなくなったときに続けられなくなる可能性が高く、更には対象者(だった人)に対して「ズルい」という感情が膨らみ、ひどいと彼らを攻撃対象にしてしまうこともあります。そうした点を考えると、「相手のために何かしてあげる」から、「相手と共によりよく生きていくための方法を模索する」といった形に発想を転換することも重要なのかなと思います。
QUESTION 05
暮らしている社会が違うと、
今とは異なる
自分になるの?

ANSWER!
同じ社会に暮らしていても、
人は日々変わっていく
植田 かおり先生
明日歯を治療することになったら、嫌だな、痛いだろうな、などと思うでしょう。そう思う今の自分は、歯医者さんで痛がっている明日の自分とは違うのに、です。私たちは、過去・現在・未来の「自分」をつなぎ合わせ、「自分」という一つの実体があると思っています。でも、そのような実体は本当にあるのでしょうか。たとえば仏教では、人は死ぬと別の社会、別の立場、別の性別の人間に、あるいは動物や餓鬼に生まれ変わると言います。ですが、全く異なる存在に生まれ変わり、その都度の生を一回きり生きて死ぬのなら、その生を生きる人にとって、輪廻することになんら意味はなさそうです。それにもかかわらず輪廻するのは、移り変わる生に通底する、確固たる自分がいると思い込んでいるからだと釈迦は説きます。昨日の自分と今日の自分は同じ「自分」でしょうか。異なる自分になるのかとあなたが問う、今の「自分」とは何でしょうか。そもそもそれが思い込みではないと、言えるでしょうか。
異なる社会を知ることで、
自分自身への理解が深まる
釜田 友里江先生
皆さんは、意識的に日本の生活や文化を考えたことはありますか。例えば、アルバイト先で午前9時のシフトと言われた場合、何時に仕事場に行き、仕事を開始しますか。就労場面において、日本では時間厳守が重視される特徴があります。アルバイト先に留学生もアルバイトとして入ってきたとします。9時に仕事場にきて、9時5分から仕事を始めたら、皆さんはどのように思い、その人を理解しますか。なぜ遅れてくるのだろうと不思議に思うかもしれません。そのように考える要因は、自分や自国文化を基準にしていることが関係しています。このような場面に遭遇したとき、その人の国の文化などを聞くことで、誤解が回避できる可能性があります。留学生は、日本の就労場面での時間の捉え方の特徴などを知らなかったのかもしれません。日本の中でも属している社会で様々な規範があり、無意識にそれに合わせている自分がいます。様々な背景を持った人と接することで、自分・自国文化に気づきます。
QUESTION 06
自分が行動することで、
社会にどんな影響を
与えられるの?

ANSWER!
相手に寄り添い、必要な支援を
考える姿勢が社会を変える
釜田 友里江先生
日本に住んでいる皆さんは、日本が住みやすい国だと思いますか。外国人にとって日本は住みやすい国だと思いますか。GLA入門II(私の担当回)では、学生全員が実際に日本に住んでいる身近な外国人に「日本での生活」についてインタビューをします。昨年の授業で学生たちは外国人にとって日本は住みにくい社会だと予想しました。しかし、日本は住みやすいと応えた外国人のほうが多い結果でした。一方で、住みにくいと応えた人の困り事にも気づきました。以上のように、実際の声に耳を傾けることは、相手の考えを理解する第一歩です。自分側からでなく、相手の視点に立つことで、外国人が直面している困り事などがみえてきます。また、インタビューに応じてくれた外国人の在留資格や属しているコミュニティなどを客観的に捉えることも必要です。相手に寄り添いながら困り事に向き合うことは、必要な支援を検討することに繋がり、社会に影響を与えていくと考えます。
日常の小さな行動を意識する。
そこから社会は変わっていく
上野 太祐先生
ここでは、世界を変えようという崇高な「行動」ではなく、日常の「行動」をとりあげましょう。例えば私は、だいたいスーツで授業をします。ところが寒くて着こみが多くなると肩がこるので、カジュアルな服で教室に入ります。すると「先生、今日はスーツじゃないですね」と言われます。学生さんの中には「この先生はスーツで授業する」という、一種の「常識」がすでに作られていて、それが裏切られたことへの反応ですね。私たちがなにげなく繰り返す日常の「行動」には、こうして「常識」を作る力が宿っています。例えば、男性が男性らしい服を着ること、女性が女性らしく化粧をすること——こうした自分のささやかな「行動」の繰り返しは、「男性とはこうだ」「女性とはこうだ」といった「らしさ」の常識を上書きしています。「社会」はこうして常識に満たされていき、ときにそれが誰かの息苦しさにもなる。さあ、《あなた》はこれからどう「行動」しますか。
