【藤原和博×西野亮廣の未来講座⑤】自殺と安楽死について考える
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藤原:
この5つのリテラシーでは、コミュニケーション・リテラシーをこの講座でも相当やっていますね。
今日はロジカルシンキング・リテラシーをディベートで鍛えるのと、ロールプレイング・リテラシーを取り上げます。
ロールプレイング・リテラシーというとちょっと難しいと思うのですが、あらゆる社会的役割を自分の頭の中でロールプレイ、演じてみて、対象となる人の気持ちを理解したりすることです。
例えばゲームのデザインをするときに、ゲームをやる人がどんなふうになったら嬉しいかな、ということをロールプレイできないと開発できないですよね。
社会科の点数が高いよりも、ロールプレイング・リテラシーの高い人を企業は採用しますよね。
あらゆる社会的役割を自分でロールプレイできることが重要なので、今日はこれをやってみたいと思います。
「よのなか科」の授業でもう20年もやっているんですけど、「自殺抑止ロールプレイ」というのがあります。
それを今日やってもらいます。
次に、「自殺」と「安楽死」の是非について後半でディベートしてもらいます。
朝日新聞社とこのロールプレイをしたときのワークシートがあります。
ケースを私が読みます。
その後2人1組になってAとBというのをロールプレイします。
「なんだろう?」
Aは人々の視線の先を見上げた。
「危ない!」
ビルの屋上のフェンスをよじのぼろうとする人影をAはとらえた。
よく目を凝らして見ると、その人には見覚えがあった。
「まさか!?」
それは、3年間部活動で共に励ましあってきた仲間のBだった。
「待って!」
次の瞬間、Aはビルを駆け上がっていた。
屋上までたどりつき、フェンスの向こう側で下を見つめるBに声をかけた。
藤原:
非常に短い文章です。これ以外のことは想像を膨らませてください。
AかBかどちらか得意そうな方をロールプレイしてください。
一方が自殺志願者になります。
それを止めるために屋上にのぼっていくA。
最初の会話はどちら側から起こるか。
当然、自殺志願者はフェンスの向こうにいるんです。
ビルの端に立っていますね。
下には人だかりがあるわけです。
だから当然、会話の最初は駆けつけた方が何か言いますよね。
自殺志願者がふっと振り向いて「やあ!」なんてことはありません。
不自然です。
駆けつけた方が何か言う。
それに対してどんな風に答えるか、今から1分以内に、自殺しようとするに至った原因をどうするか、相談してください。
藤原:
設定が終わりましたね。
最初に断っておきます。
ここにいるメンバーに、かつてそういう心理状態にあった人がいるかもしれませんし、画面の向こうにいる人たちの中にもいるかもしれないですが、構わずやります。
では実際にロールプレイしてみましょう。
藤原:
せっかくだからみんなの前でやってみてください。
A.何やってんだよ!
B.もう俺、死のうと思って…
A.ちょっとよじのぼってきてよ
B.いや俺もうそういう感じじゃないし。俺小学生じゃないし、そのノリ今いらないから。
部活も終わって今までやってきたことが終わって、受験が始まって何のために生きてるかわからなくなって、人生楽しくないし先見えないし…
A.それ俺も一緒だから
B.いやお前に俺の気持ちはわからない
A.わかるよ
B.いやわかんないって
藤原:
みんなにも1分くらいロールプレイしてもらいましたが、自殺をやめようと思ったか。それとも実行するか。
引き止められると思った人、手を挙げてください。
結局、難しいわけだよね。
説得側の人、こんなことやったことないと思うんだけど、実際やってみて、自殺を止めるのは難しいと思った人、手を挙げてみてください。
そうだよね、それでいいんです。
本当に難しいことなんです。
説得側といいましたが、実は説得することは基本的に不可能だといわれています。
なぜかというと、自殺志願者の人はもう徹底的に考え抜いています。
それが半年かもしれないし、2年間かもしれないし、5年間なのかもしれない。
考えに考えて、追い込まれてこの状況に至っています。
ある種の哲学者です。
理屈で説得するのは不可能です。
例えば、“お母さんが悲しむじゃないか!”と言っても、“悲しまないからここにいるんだ”、“友達が悲しむ”と言っても、“いや悲しまないよ、昨日までいじめてたくせに何言ってんだ”という話になる。
要するに、理屈で迫ると理屈で返されるわけです。
“待ってくれよ、もっと楽しいことあるよ!”と言えば、“そんなこと死んでみなきゃわかんないじゃないか”と、とにかく理屈では理屈で返されちゃう。
こういう時に唯一有効なのは、こちら側の感情を吐露することだと言われています。
絶対イヤだって言い張るしかない。
感情については否定することはできませんから、だからそういうケースが本当に起こった場合は、いち早くお母さんが呼ばれるわけです。
お母さんにとって理屈じゃないから、自分の子なんだから。
自分がお腹を痛めて産んだ子です。
理屈じゃなく、とにかく絶対に死なないで!って言ってもらうんです。
ちなみにこういう時の禁句があります。“頑張れ!”です。
頑張りに頑張って、ここまできているわけです。
それを越えてまた頑張れとこちらが言っちゃうと、“お前、俺の気持ちわかんないんだな”ってなっちゃうわけです。
それで糸が切れちゃう可能性があるわけです。
極論と極論の間で自分の考えを明確に持つ
今度はディベートのマナーを学んでほしいんです。
もう一枚の方のワークシートを見てください。ちょっと深いです。
私は15歳。
学校も家もつまらない。
みんなくだらないことばかりに夢中になっている。
何が面白いのか意味が全然わからない。
そもそもこの世の中には意味なんてないのかもしれない。
もう生きてるのに疲れた。
誰にも迷惑はかけたくない。
人知れず、富士の樹海に姿を消そう…
こういうことを理由にして自殺するっていうことはどうなのか。
誰にも迷惑はかけたくない、とありますよね。
人知れず富士の樹海に姿を消すことは許されるのか、許されないのか、どっちなんだろうか。
自殺志願者が自殺を選ぶということ、道徳の授業じゃないのでどちらに手を挙げてもらっても構わないので、許されるという人は手を挙げてください。
許されないという人は?
ちょうど半々ぐらいに分かれますね。
自殺は道徳的にダメだというには、“自殺は悪”だといわなければいけません。
道徳というのは善か悪かなので、もし自殺が悪だというのであれば、去年で年間2万人近い人が自殺しています。
子どもたちも含めて、小学生、中学生、高校生で何百人も亡くなっています。
それを、悪だといわなければならないわけです。
なかには悪い人に追い詰められた人もいるかもしれないし、すごく素直な人だったかもしれないし、ちょっと勇気があったばかりに、という人がいるかもしれない。
そういう意味で、道徳で、善悪で“自殺はダメだ”という風にはいえないと思うんです。
であれば、議論するしかないんです。
議論した時に、宗教によっても立場が分かれます。
君たちもわかると思うんだけど、イスラム教であれば、アッラーの神の思し召しであれば許されるわけです。
仏教だと、もし自分の命を自分で奪うと次に生まれ変わる時は“畜生”、動物になっちゃう。
子どもの頃から、自分の命を断つと、とにかく人間に生まれ変われないんだ、と教育されれば、そういう信念を持つに至るんじゃないかと思うんです。
そのように世界中を見渡せば宗教の派閥でも考え方は違うんですよ。
“自由にやっていいじゃないか”という極論から“命はつながっている、どんな条件があっても許されない”という極論があって、ここにいる人たちも画面の向こうの人たちも、この極論の間で、自分のポジションを取るしかないんですよ。
自分はこうだっていう意見を持つこと。
ある条件が満たされればいいんじゃないか、とか、いや絶対許されないんじゃないか、でもこういう時は仕方ないんじゃないか、など自分の考えをしっかり固めて議論する以外に方法はないんです。
答えのないことは、議論し続けるしかない
最後の課題です。
これは本当に議論が分かれると思います。
大人も悩みます。
「安楽死問題」です。
この3年入院、検査、手術、何度繰り返してきたことか。
その度に小さくなる母の体。
たくさんの病院を回り、人からいいと言われたことはなりふり構わず試してきた。
しかし、どれも効果がないことは母自身が痛感しているようだ。
苦しみでゆっくり眠ることすらできない。
この苦しい治療は、本当に母の望むことなんだろうか。
母の体に繋がれたチューブを外せば・・・。
非常に深いケースです。
ありうるケースです。
もうそこここで起こっています。
では末期ガンの母を安楽死させること、チューブを外すとワークシートにもありますが、実際に起こった事件です。
「東海大学安楽死事件」という事件。
医師が家族の希望を入れて延命をストップしました。
その時に刑事事件になってしまい、判決は既に下りています。(有罪・懲役2年執行猶予2年)
医師による安楽死が許容される4要件というのがあります。
2.患者は死が避けられずその死期が迫っていること
3.患者の肉体的苦痛を除去緩和するために方法をつくし、他に代替手段がないこと
4.生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること
意識を失っていたり、介護されていたり認知症だったりしたらどうするのかということも含めて、非常に難しいです。
一律にルールを決めて、これだったらOK、という風にはならない。
おそらく“永遠の課題”だと思います。僕らが議論し続けなければいけない。
ましてや自分自身が自分の家族がそうなった場合、その時点で判断しなければなりません。
だから、こういうディベートを学校でも家庭でも時々やったらいいんじゃないかと思うのです。
→次へ続く