『源氏物語』について熱く語りたい!
大河ドラマをきっかけに、
『源氏物語』をはじめとする日本の古典文学に
関心を寄せている方も多いのではないでしょうか。
発想力を育て
『源氏物語』の“表現”に切りこむ楽しさと
難しさを実感している――。
そう語るのは、日本文学科4年生の楠田健人さんです。
学内の中古文学研究会でも幹事を務め、
今まさに“古典文学漬け”の学生生活を送る楠田さんに
國學院大學の研究環境とその魅力を伺いました。

PROFILE

文学部 日本文学科 日本文学専攻4年
中古文学研究会 幹事
私立麻布高等学校 卒業

楠田 健人

楠田さんは現在、日本文学科で『源氏物語』を研究しています。この作者、紫式部が主人公の大河ドラマが放映中(2024年3月取材)ですが、どのような点に注目してご覧になっていますか?

楠田さん: 私が食事を研究テーマの一つにしていることもあり、ドラマに出てくる食器や食品に目がいきます。例えば花山天皇が薬湯を飲むシーンでは、やはり青磁が使われるのだな……と思いながら見ていました。実は当時、青磁の器は大変貴重な舶来品ということもあり、限られた上流階級の人にしか使えないものでした。『源氏物語』でも青磁器は「秘色」の名で登場し、皇族としての高い身分を表すアイテムになっているので、この場面にはぴったりの道具立てというわけですね。また、散楽一座が登場するシーンも興味深かったです。研究会でちょうど昨年12月に、700年以上の歴史を持つ愛知県奥三河の民俗芸能「花祭」の見学へ行ったのですが、そこで目にした伝統的な舞や吹きあわせる笛の調子などが、散楽の場面にそのまま再現されていると感じました。細部の作り込みはさすが大河だと感心しています。

『源氏物語』は現代語訳も数多くあります。オススメはありますか?

楠田さん: 研究会に入ったばかりの新入生にもよく訊ねられるのですが、私が必ず勧めるのは谷崎潤一郎訳の『源氏物語』(以下、谷崎源氏)です。谷崎源氏は、国語学の大家である山田孝雄先生が校閲をなさっていることもあり、概ね原文に忠実な逐語訳となっています。加えて『源氏物語』は息の長い、つまり長く連続していくような文体で書かれていますが、谷崎もまた息の長い文体を得意とする作家です。そうした点で谷崎源氏には、原文の表現やリズムが巧みに翻訳されていると思います。最近では、本学出身の研究者によって谷崎源氏に関する専門書も出版されました。原文より読みやすいというだけではなく、紆余曲折を経て出来上がった谷崎源氏独自の世界にも惹かれますね。

楠田さんはどういったきっかけで『源氏物語』に興味を持ち、今に至ったのでしょうか?

楠田さん: 中高生の頃は背伸びしながらもさまざまな小説を読み、芥川が好きだとか、谷崎が好きだとか感じる一方、文学作品への向き合い方には迷いがありました。ストーリーが面白ければよいのか、テーマに共感できればよいのか、それとも文体が好みであればそれでよいのか……というふうに、作品の良さ、大袈裟に言えばその価値をどう受け止めればよいのかわからなかったのです。そんな時期に、高校の古典の授業で『源氏物語』を読み、複雑な人物相関図や何ページにもわたる年立(年表)に圧倒されながらも、格調高い言葉のリズムにたちまち魅せられました。とにかくこの作品の素晴らしさを隅々まで理解できるようになりたいと感じ、そこで思いついたのが“研究”だったのです。早速、職員室へ行って「どうしたら、源氏学者になれますか?」と先生に相談すると、「平安文学をやるのなら國學院がうってつけだ」と勧められました。それから國學院大學を第一志望として入学後、初めて受講した日本文学の授業で、研究会を新たに立ち上げるというお話を竹内正彦先生から伺いました。授業が終わってからすぐに先生の後を追い「研究会に参加させてください!」と声をおかけした時に、私の大学生活が決まったように思います。

とてもすてきなエピソードですね。中古文学研究会では、どのような活動をしているのですか?

楠田さん: メンバーは学部生・大学院生合わせて13名(2024年3月時点)が所属し、毎週火曜の夜に顧問である竹内先生の研究室に集まります。必ず会員1名が資料を用意し、『源氏物語』の原文をリレー形式で読む「輪読発表」をするのが基本の活動です。学生同士の質疑応答で読みを深め、最後に先生からご総評をいただいて締めます。また、自分なりの題材を取り上げる「テーマ発表」を夏合宿で行うほか、学外へ出る機会も多く、先ほどの「花祭」見学をはじめ、博物館・美術館での展覧会や歌舞伎などへも足を運んでいます。

4年生の楠田さんは、今や研究会をまとめる幹事として後輩たちを指導する立場にあります。大学での研究スタイルは入学してすぐに確立できたのでしょうか?

楠田さん: 入学時は“研究”のことが何も分かっておらず、当時自分が作った発表資料を見返すと顔から火が出るほど恥ずかしくなります(笑)。簡単に言えば、先行研究を調べて、この研究者が正しいことを言っていますで終わりと。最初に辞書の記述をあげるものの、そこからはみ出すことは一切せず、まるで辞書の正しさをチェックしているような発表資料なんですよね。しかし本来、大学での“研究”はそういうものではなく、辞書や先行研究が言っていることを乗り越えていかなくてはなりません。例えば、好きな小説やマンガ、アニメについて語るにしても、評論家の言葉をそのまま借りるだけでは、物足りないですよね。

高校までの古典は単語や文法の暗記が中心で、教科書の内容や先生が言った一語一句に忠実であることが求められるので、辞書や先行研究を疑うことはやはり怖いと思います。しかし、そこのタガが外れて、すべてが正しいとは限らないと自立した見方ができるようになった時に、“感想”が“意見”になり、“調査”が“研究”になっていくのだと思います。振り返ると、2年生になったばかりの頃に研究会の先輩から、「(作品を)どう読むかは君の自由だから。ただし、証明できるならね」と励まされたのが、私にとっては一つの転機になりました。

先行研究でいうと、『源氏物語』は本居宣長や折口信夫ら、錚々たる顔ぶれの研究が既にありますが、そういった点で難しさはありませんか?

楠田さん: 確かに『源氏物語』は研究史の厚みが段違いなので、先行研究を乗り越えることには特に苦心します。そこで必要となるのが独自の視点で新たな課題を見つけ出す“発想力”であり、この源泉となるのが、竹内先生が指し示してくださった「実感実証」の学びだと考えています。これは、学問は四角四面の論証ばかりではなく、まずは“実感”を育まなければ基が立たないという考え方で、國學院大學で伝統的に受け継がれてきた方法です。だからこそ研究会では、民俗芸能や伝統文化を体感する機会を重視しています。一つ例を紹介しましょう。私が今年の1月に見学した伝統行事「坂部の冬祭り」(長野県天龍村)では舞が夜通し行われていたのですが、まずは日付が変わる頃まで素顔を出した“人”の舞が続きます。その後、夜が更けて初めて蔵へ「面迎え」に行き、面をつけた“神”の舞に移っていくのです。まるで『古事記』や『日本書紀』に描かれた天岩戸(あまのいわと)が開くワンシーンのようではありませんか?眠気に耐えて祭りを見学し、「神様をお迎えするには深夜まで舞い騒がなくてはいけない」ことを肌感覚で納得できればこそ、「この場面ではなぜ舞が描かれているのだろうか」という“実感”を伴った眼差しを、あらためて文学作品に注ぐことができるのです。

加えて國學院大學には、平安装束の狩衣(かりぎぬ)を着るワークショップや大学図書館所蔵の『源氏物語(久我家嫁入本)』の展示など、学内で本物を見て体験できる機会も豊富にあります。こうして座学だけでは得られないものを、体感を通じて得る「実感実証」の学びが“研究”の核となる“発想力”を生み出し、同時にこれが國學院大學で研究に打ち込むうえでの醍醐味にもなっています。

これまで研究を深めてきたなかで、楠田さんがあらためて考える『源氏物語』の魅力とは何でしょうか?

楠田さん:  卓越した文学表現です。『源氏物語』は、人物造型やストーリーへ奥行きを与えるために、とにかく表現技巧を凝らした作品です。漢籍・神話といった先の文物や、生活を取り巻く民俗の世界を源泉としつつも、決してそれらをなぞるだけではない新鮮な表現が物語を形作っているのです。話は少し変わりますが、私は研究会の新入生に「濃く湯気を立てる一杯のコーヒー」と言われてどういうシチュエーションを思い浮かべるか、と聞くことがあります。湯気を立てるということはホットコーヒー、それがことさら濃いとなれば、寒い季節の屋外だろうと。さらにカフェインが含まれるコーヒーは目覚めの一杯にもなるので、朝だろうと。となると、普通に考えれば“日常”的な通勤通学の風景ということになります。ただ、これをあえて夜と捉え直すと、うってかわって“非日常”の夜更かしとなります。テスト勉強に倦んで軽い夜歩きだろうか、あるいは公園のベンチで誰かと始発電車を待っているのだろうか……。こうした些細な、たった一言の表現にも敏感であろうとすれば、『源氏物語』の世界はより色彩豊かな“読みの広がり”を現わしてくれます。

平安時代後期の歌人、藤原俊成は「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」と、つまり和歌を詠むのであれば源氏は読んで当然、という言葉を残しています。これはもっともでしょう。意味深長な表現に豊かであればこそ、むしろ文体は多くを語らず、洗練されたものとなります。『源氏物語』こそ手本にすべき価値ある“古典”である、その感覚は今も昔も変わらないと思います。

最後に、高校生へのメッセージをお願いします。

楠田さん: 私は今、“表現”への向き合いを通して『源氏物語』の価値に触れられていると実感しています。そして、研究のなかで「これが好きだ」「あれが好きだ」というのを深く語りあうことができる。皆さんもこの自由をぜひ國學院大學で味わってください。「自分が好きというだけで十分だから、他人がとやかく言わないでくれ」と、時に少し苦しげに口にする人がいます。しかし、“なぜ好きなのか”という理由を“自分の言葉”で言えるようになることで、そんな不安感は払拭できるのではないでしょうか。また、高校時代の私は、はじめから古典文学に決めていたわけではなく、少しでも面白そうだなと思ったものには片っ端から手を出し、進むべき道を迷いに迷いました。迷走するうちに、自分には打ち込めるものが何もないんじゃないかと疑いはじめると、本当に辛い思いがしました。しかし、高校生は得てしてそういうものかもしれません。“好き”という衝動だけで息切れする前に、それを言葉にしていくことは賢明な手段であり、“研究”はその一助になると今は断言できます。最後になりましたが、國學院大學で皆さんとお会いできる日を、楽しみにしています!

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