より豊かな歌の読み方を考える
一般的なイメージとは異なる万葉集の魅力を語る土佐秀里教授
漢字だけで書かれていた古代の日本文学
奈良時代にはひらがなやカタカナがまだなかったため、『万葉集』や『古事記』はすべて漢字だけで書かれています。しかも、漢字の使い方や読み方にまだ統一的なルールが確立していなかったため、後世の研究者は「この字はどう読むのか」、「この歌はどういう意味なのか」を読み解くのにたいへん苦心してきました。『源氏物語』のようにひらがなで書かれた作品は、文字の読み方がわからないということはまずありませんが、漢字だけで書かれた『万葉集』には読み方がわからないところがかなりあります。平安時代になると、『万葉集』はどう読んだらいいのかわからない難しい本になっていました。『万葉集』の研究は、まずは「字の読み方」から考えなければなりません。字の読み方ひとつで、歌の意味も大きく変わってきます。
文学研究は、「作者の意図」を探ることよりも、「作品のもつ豊かな可能性」を探ることに目的があります。作者が何を考えていたのかなんて結局はわかりませんし、たいしたことは考えていなかった可能性さえあります。文学研究に唯一の「正解」はありません。正解はないのですが、しかし「より豊かな読み方」はあります。『万葉集』の研究は、同時代の文献や古辞書、注釈書といった資料をもとに、文字の使い方や言葉の意味を考え、また当時の歴史的な状況や生活環境を理解することで、最終的に「より豊かな読み方」の可能性を考えてゆくものです。
どう読んだら「より豊かに読める」のかを文脈から考える
東の野に炎の立つ見えて かへり見すれば月傾きぬ
原文:東野 炎 立所見而 反見為者 月西渡
中学の教科書でもお馴染みの柿本人麻呂の歌です。現在は前半部を「ひんがしののに かぎろひの たつみえて――」と読むのが一般的ですが、これは江戸時代の国学者・賀茂真淵が提唱した読み方で、それまでは「あづまのに けぶりのたてる ところみて――」と読まれていました。「かぎろひ(陽炎)」と「けぶり(煙)」とではかなり印象が違いますよね。
『古事記』や『日本書紀』などの同時代の文献や、平安時代以降につくられた古辞書を調べてみると「炎」という字には「かぎろひ」、「けぶり」、「ほのほ」など複数の読み方が存在していて、どれが作者の意図した読み方なのかはわかりません。言葉単体で考えてもわからないので、この歌が詠まれた背景や文脈から「どう読んだらしっくりくるのか」を考えてみます。
この歌の大意は「東の空から炎が上がってくるのが見えて、振り返って反対を見ると月が沈んでいる」となります。東の空に上がるもので、月と対比されるものといえば、普通は太陽でしょう。実はこの歌は、一続きのグループの中の一部であって、この直前の歌が夜中のシーンで、直後の歌が朝のシーンなのです。その流れからいっても、日が昇る夜明けのシーンだと考えるのが自然です。
しかし、太陽を表すのに「かぎろひ」や「けぶり」ではどうもしっくりきません。いろいろ資料にあたって検討した結果、私はとりあえず「ほのほ」と読んだらいいのではないかと考えてみました。世間の常識に逆らう孤独な説なのですが。
うわべの「感動」にまどわされない読解を目指す
『万葉集』の研究が難しいのは、「炎」の例のように当時の読み方がわからなくなっているからだけではありません。写本が作られる過程で写し間違えたり、意図的に本文が改変されて伝えられたりしていることも大きな要因です。
降る雪はあはにな降りそ 吉隠(よなばり)の猪養(ゐかひ)の岡の寒からまくに
原文:零雪者 安播尓勿落 吉隠之 猪養乃岡之 寒有巻尓
これは穂積皇子(ほづみのみこ)が、亡くなった但馬皇女(たじまのひめみこ)のお墓の前で詠んだ一首です。現代語訳としては「雪よ、そんなに降らないでくれ。お墓で眠る但馬皇女が寒いだろうから」というのが一般的です。
しかしこの解釈には疑問があります。というのも、現在の活字本で「寒有巻尓」と書かれている部分を、古い写本で見るとほとんどが「塞為巻尓」となっているのです。これを「寒からまくに」と読むのはちょっと無理があります。
では、どうしてこのような現代語訳が一般化したのでしょうか。たしかに「塞」と「寒」とはよく写し間違える字なのですが、「為」が「有」になったのは江戸時代に考え出された意図的な改変なのです。どうしてそんな改変をしたのか、その理由を説明するために、この歌が作られた状況を紹介しておきましょう。
但馬皇女は穂積皇子に思いを寄せていて、ほとんどストーカー化するほど積極的にアプローチをしていました。ところが穂積皇子はそれに返事もせず、ずっと無視し続けていました。しかし、いざ但馬皇女が亡くなってしまうと、穂積皇子は但馬皇女の気持ちをはぐらかし続けたことを後悔し、雪の降りしきる日に、彼女のお墓がある「吉隠の猪養の岡」を訪れ、泣きながら彼女を偲ぶ歌を詠んだというわけです。
映画のワンシーンのように美しく、感動的な場面ですよね。そうなると読み手としてはどうしてもこの部分を「寒からまくに」と読みたくなりますが、「塞為巻尓」ではそう読めません。かといって他にいい読み方も思いつきませんので、意味も読みもはっきりしない「塞為巻尓」よりも、読み手が感動できる「寒有巻尓」に変えてしまったのです。しかしわからないから変えてしまえというのは乱暴な話です。難しいけれど、もう一度「塞為巻尓」から考え直してみる必要があると思います。
「安い感動は文学の敵」というのが私の持論なのですが、ありがちな「感動」に囚われてしまうと、内容を都合のいいように改変したり、矛盾を無視してしまったりする危険性があります。感動することが悪いわけではありませんが、研究するときには、感動から一歩引いたところで、冷静に読む態度が必要になってきます。
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